特別掲載:リレーエッセイ「被災地で生きる女たち」(2014年9月)
2016/03/11『女たちの21世紀』のリレーエッセイ「被災地で生きる女たち」は、被災地で暮らす女性や、原発事故で生活に大きな変更を余儀なくされた方の思いを届けるため、2013年9月からはじまりました。震災から5年の今日、執筆者の承諾を得て掲載します。(2016年3月11日 『女たちの21世紀』編集部)
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『女たちの21世紀』79号、2014年9月掲載
リレーエッセイ 被災地で生きる女たち 5
木村理恵(快療法研修生。2014年12月までネパール・カトマンズ在住)
2012年4月、岩手県盛岡市からインドネシアのバリ島に夫と避難移住した。宮城県気仙沼市の実家と父は津波の犠牲になった。73歳の母は同居を拒み、今も仮設住宅に独居する。気楽な1人暮らしを楽しむ一方で、長引く仮設生活の疲れや被災当時からの緊張と不安が続き、震災直後から睡眠導入剤を常飲している。防潮堤計画の暴挙、東京五輪開催決定、復興税流用という被災地棄民政策は、喪失感を埋めようがない仮設住民から生きる力を奪っている。
11年4月から9か月間、岩手県大槌町と宮城県気仙沼市でボランティアをしたが、不正出血が続いたのでやめた。婦人科ではストレス性と言われたが、被曝症を疑った。骨に食い込むような疲れが抜けない経験は初めてだった。
バリ島に移住後、2か月ほどで不調はおさまった。今は母の仮設にボランティアに来た「快療法」者の縁で、ネパール在住30年の元看護教員の方から、代替療法を学んでいる。多くの医者が体制依存している現状では被曝患者は追い詰められる上、TPPで医療崩壊が予想される。できるだけ病院に頼らず、症状が軽いうちに自己ケアすることが必要になると思う。一時帰国の際に被災地や米軍基地前での座り込み抵抗者にその知識や技術を伝えたいし、国外で収入手段になれば助かる。
国外でも/だからできること
進退を決めたのは12年元旦の地震だった。崩壊寸前のようなフクイチ4号炉の画像に震撼した。夫は3月に早期退職。石巻市出身の旧友が「逃げてきて」と呼び続けてくれたバリ島へ。40代夫婦の初の海外移住だ。反核活動仲間の反応が痛かった。「身勝手!」そうか。『蜘蛛の糸』を先頭でよじ登る男になった感覚。「妊娠したから避難するの?」と聞かれ、避難には我が子を被曝から守るため、という大儀が必要なのかという圧力を感じ、ふっ切れた。子どものいない自分がまず逃げて、逃げたい誰もが逃げやすい道作りに微力を尽くそう! 被曝、兵役強要、原発再稼動を回避できるまで、避難者の受け入れは国外でも必要だと思う。
市民活動は国外でもできる。在外選挙制度で投票も可能だ。インターネットでパブコメ、カンパ送金、裁判原告参加も問題ない。反核イベント参加や保養支援は一時帰国のときに限られるが、移住国の反核者たちと共に行動できる。
原発建設候補地のひとつ、インドネシアのスラバヤで、住民向けの原発セミナーに参加した。私の被曝被災体験談に自分事のように心痛め、涙するも、「なぜ、2度も原爆投下されたのに核エネルギーを選んだのか?」と鋭く当然な疑問を投げてくる住民たち。この問いは場を変えるたびに発せられた。
日本の原発輸出先や核廃棄物の捨て先に狙われているアジア各国の市民に、「被害者」として反核を呼びかけることはできない。戦後処理棚上げと反省なき現政権、アジア搾取で経済成長を許してきた結果、放射能を垂れ流す最悪の地球汚染源となった日本。謝罪してから、反核連帯をお願いしている。加害に向き合い事実を共有することで、未来を開けると思う。