報告

「強かんの許可証」(仮題)の日本語仮訳版(原題:License to Rape)

2022/02/01

ビルマのシャンの女性たちのグループSWAN(Shan Women’s Action Network)によって発行された「License to Rape(原題)」の日本語仮訳版を公開しています。アジア女性資料センターでは、2004年春からボランティアを募って「License to Rape日本語版制作プロジェクト」を進め、多くの方々のご協力を得て仮訳版を作成しました。

注:これは日本語仮訳版です。転載・転送の際はアジア女性資料センターまでご連絡ください。

「強かんの許可証」(仮題)(原題:License to Rape) ビルマ軍政によるシャン州における戦時下性暴力の行使

◆目次◆

1.性暴力の被害地図
2.概要

「強かんの許可証」では、ビルマ国軍部隊がシャン州で起こした強かんなどの性暴力事件173件について詳細な報告がなされている。大部分は1996年から2001年の事件で、被害者は幼い少女も含む625人の女性だ。強かんされたというのは不名誉なことなので、多くの女性は性暴力事件の報告をしないということも心に留めておかなければならない。シャン州の人権侵害について「シャン人権基金」はタイ―ビルマ国境にたどり着いた難民から情報を得ているため、把握していない事件もあるだろう。したがって、この報告書の数字は実態をはるかに下回るものと思われる。

シャン州の少数民族を威嚇し従属させる目的で、ビルマ軍政が組織的かつ広範囲にわたり部隊に不処罰で強かんを行わせていたことがこの報告で明るみに出た。性暴力と言う形の戦争犯罪・人道に対する罪がシャン州で行われ続けていることを報告書は明示した。

シャン州の市民に対する強かんが、「戦争の兵器」として職権で許されていることを示す明白な証拠を報告書は提示した。反政府活動弾圧の一環として、計画的な戦略の下にビルマ軍部隊はシャンの女性を強かんしているように見受けられる。強かんを行った兵士の所属する部隊は52にものぼる。全体の83%は部隊の上官によるもので、部下の目の前で行われた場合が多い。強かんはきわめて残虐な形で行われ、殴打や手足の切断、窒息などの拷問をともなっていた。強かん事件の25%で被害女性は殺害されており、死体が地域でみせしめとしてさらされたケースもある。61%は複数の男性による強かんで、国軍の基地で行われ、4ヶ月に渡って監禁され繰り返し強かんされたケースもあった。報告書の173件の強かん事件の中で加害者が上官に処罰されたのはわずかに1件であった。むしろ被害を訴えた側が、罰金をとられたり、身柄の拘束や拷問を受けたりすることの方が多く、軍によって命を奪われたことすらあった。

ビルマ軍政によってシャン州が軍事化され、シャン平和開発評議会(SPDC)と現在名づけられている反政府活動弾圧策が強まり、シャンの女性はますます強かんの被害にあいやすくなっている。1988年以来州内の部隊数はほぼ3倍になった。1996年以降30万人以上の住民が住みなれた土地を追われて強制移住させられたシャン州中部で強かん事件の大多数が起きている。再定住地の外に出て食糧を探しているときにつかまって強かんされることが多い。また、ビルマ軍のためのポーターその他の不払い労働をさせられた時や、軍の検問所で停止させられた時に強かんされることもあった。

強かんのサバイバーについて肉体的・精神的な影響も調査されているが、法的な賠償もいかなる危機支援も得られない苦悩が報告されている。被害者は自分の家族や地域社会から責められたり拒絶されたりする。サバイバーの多くは被害を受けた後タイに逃げることを決心していた。しかし、タイではシャン難民が認定されないため何らの保護も人道支援もカウンセリングも受けられないのである。したがって搾取されたり誘拐されたりすることも多く、虐待者の手中に落ちる危険にいつもさらされている。

 

報告書を元に州平和開発協議会に対しSHRFとSWANは以下の勧告を行う

1.少数民族居住州における軍事化の進行と反政府活動弾圧キャンペーンを中止するため全土で即時停戦を実行すること

2.ビルマの政治的将来像を協議するため、ビルマ族以外の民族・反政府民主化勢力を含めた三者対話を開始すること

3.文民に対する武器使用を禁じた1949年8月12日施行のジュネーブ条約第3条を含む国際人道法遵守の義務を十分に尊重し、子どもや女性や少数民族及び宗教上の少数者を含むすべての文民を人道法違反から守ること

4.強制労働に関するILO1930条約(No.29)に基づく義務を遵守すること

5.女性に対する度重なる人権侵害をやめること、とりわけ軍人によって行われることが多く、特に帰還難民や国内難民もしくは少数民族や政治的反対勢力に所属する女性が対象となる強制労働、強制移住、虐待、性暴力、搾取及び監禁虐待や簡易死刑執行をやめること

6.組織的な強制移住や近隣諸国への難民流出の原因に終止符を打ち、彼らが自ら安全に帰還して再統合できるよう適切な条件を整え、人権活動家が安全に妨害を受けずにアクセスし帰還と統合を支援できるようにすること、特に国境付近における女性・子どもの誘拐という問題に対処すること

7.国内法を整備して「子どもの権利条約」及び「女性に対するあらゆる差別撤廃条約」を遵守すること、女性に対するあらゆる差別撤廃条約の選択議定書及び子どもの権利条約の選択議定書の調印・批准を検討すること

8.女性に対する差別撤廃委員会による勧告を十全に実施すること、とりわけ女性の人権を侵害する者を訴追し罰せよという要求にこたえること

 

タイ国王政府へ

1.タイ―シャン国境のシャン市民を保護し、タイへの国境を越えて難民キャンプやUNHCRにアクセスできるようにすること

2.シャンの亡命希望者がタイに本拠を置く人道支援機関にアクセスできるようにすること

3.真の難民であることが多いのでシャンの移民労働者の強制送還に関しては特に注意を払うこと

4.シャンの女性をビルマ国軍の手に渡さないこと

5.タイ及びビルマ政府は国際社会及びUNHCRが、ビルマ移民の強制送還計画についての話し合いや交渉に参加できるようにすること。話し合いにおいては移民労働者の流出の根本原因に焦点を当てること。

 

国際社会に

1.ビルマの政治的開発を、非ビルマ少数民族居住地域において広く行われている度重なる人権侵害に対する煙幕とさせないこと

2.SPDCが人権委員会「ビルマの人権状況」の2002/67決議に基づく上記勧告を守るよう圧力をかけること、

3.ビルマの民主的改革に向けての決定的な変化がおきるまで軍政に対するあらゆる形の援助を控えること ビルマの少数民族居住地域で活動する国連機関及び国際NGOにSPDCが当該地域で文民に対して行っている惨事の目撃を公表すること、声を上げないでいることは虐待の共謀と同義であるから。

3.序文

この報告は「SHRF女性部」とSWANの共同調査である。「シャン人権基金」月間のニュースレターを発行し、1997年来シャン州においてビルマ軍が行ってきた強かんをはじめとした人権侵害について報道してきた。1999年にその年ビルマ軍によって行われた強かん事件を列挙したビルマ語の冊子を製作した。SWANの会員はまたこの数年間国際的なフォーラムでシャン州の女性に対する暴力の状況がどのようなものであるかを明るみに出す数々の発表を行ってきた。しかし少数民族居住地域におけるビルマ軍の組織的な性的虐待の広がりに国際社会が注目するためにはより詳細にわたるわかりやすい報告書を製作する必要があることは明らかだった。

 政治的変遷に向けての進歩が見受けられるということで軍政に対する国際社会の圧力が緩和しつつあるという最近の指摘がある中で、ビルマの内乱が続いていることが少数民族、特に女性に与えている影響を明るみに出す必要はますます火急のものとなっている。国境地域の大半において外部のもののアクセスが制限され続け、情報の自由がないため、軍政はビルマの少数民族人口への抑圧を組織的に行い続けていることを完全に隠すことが可能であった。このような虐待の大規模な続行を隠すことによって、

 軍政は内乱を終わらせて国の将来像に関する対話に少数民族グループを関わらせる緊急の必要性を国際社会にとって見えにくくしている。

 ビルマ軍によって行われた性暴力の度合いを明るみに出し、そのような犯罪を行った者を罰する方の支配を回復する必要以外にもまた報告書はジェンダーバイアスがはびこっているため地域社会に非難されることをはじめとした強かんのサバイバーが直面する諸問題を調査しようとしている。

 SHRFとSWANはこの報告書のための情報を2001年1月から2002年3月の間に集めた。この間タイ―ビルマ国境の28人の女性がこの報告書のためだけに、SHRFもしくはSWANネットワークによって或いはLahu女性組織によってインタビューされた。これらインタビューは報告書の付録に完全な形で収録されている。さらに145件については月間のSHRFニュ―スレターから転載された。これらのケースは詳細にはわたらずサバイバーに対する影響には焦点を当てていない。全173件からの情報は報告書の付録の表にまとめられている。

 記載されている事件の大半は1996年から2002年の間に起きたものだが、直接インタビューした被害女性から知らされた5件の以前の事件も含まれている。

 シャン州の強かん事件に関する現在の情報についてはSHRFの月間ニュースレター(www.shanland.org)を参照してください。

 SHRFとSWANはこの報告書のための情報収集及び編集に時間を割いて下さったボランティアの方々に感謝申し上げます。この報告書の製作を支援してくださったノルウエー人権基金にも厚く御礼申し上げます。

4.背景
4-1.シャン州の歴史的政治的背景 4-2.シャン州のジェンダー役割と強かんに対する伝統的な反応4-3.シャン州における40年にわたる内乱時の性暴力と国際法用語4-4.シャン州における軍事化の進行

シャン州はビルマ連合国として今日知られる国の北東部16万平方キロメートルにわたる山岳地域である。宝石や鉱物及びチーク材など天然資源が豊富である。シャン州の人口はおよそ8百万で、その約半分はシャン民族で、その地域の肥沃な谷部に住んでいる。シャン民族は、民族的にはタイにつながり、言語も似ている。その他の少数民族にはAkha, Kachin, Lahu, Palaung, Pa-O, Waがあり、その多くは山岳民族である。

 シャン州はかつては30以上の小国に分かれていてそれぞれ世襲の族長によって統治されていた。英国がビルマを植民地化した時ですら、シャンは自治を許されていた。10年後に分離する権利を認められるという条件で、シャンは独立のため、ビルマのシャン以外の部分との統合に同意した。この条件は憲法に明記されているが、保証されたことはない。

 シャンや他の少数民族指導者は自民族のより平等な権利をもとめてビルマ政府との交渉を重ねてきたが、1962年のクーデターでネウィン将軍率いる軍がビルマ政権を握ったため打ち切られてしまった。

 以来、軍政が続き、政権を手放すことを拒絶している。1990年の選挙で、シャン民族民主連合(SNLD)がアウンサンスーチー率いる国民民主連合に続く2番目に多い議席を全土で獲得したが、軍は選挙結果を認めなかった。以来SNLDのメンバーは他の反政府勢力と同じような迫害にあっている。

 過去40年間シャン州では様々な民族抵抗運動が起きた。ビルマ軍は当地域における軍の存在感を着実に増すことで対処してきた。抵抗運動は主にゲリラ的な性格を帯びるため、軍政が文民に対して大規模な反政府勢力弾圧キャンペーンを行うことが多く、民族的反乱分子を村人がかくまったり支援したりしないようにした。これらのキャンペーンでは村人は軍の基地付近の戦略的な場所に強制移動させられることもあり、文民は緊密な監視下におかれた。

 最大規模の最も集中的な強制移住事業は1996年から1997年にシャン州中部で行われた。30万人を越える人々が1,400を越える村の住みなれた家から何もない再定住地へと強制移住させられた。その多くは依然として帰還を許されておらず、半数以上が難民としてタイへ逃げたようである。

(女性は夫を尊敬し、動物は主人を尊敬する)古シャンのことわざ

 シャンの伝統的な農村部は男性支配社会である。公的な場面で男性が村長、村議会や寺院委員会などあらゆる指導的役割を独占する。家庭生活においても男性は家族長とみなされている。

 地域社会の意思決定において女性は何の役割も果たすことがない。女性は結婚し、夫に仕え、子どもを生むものとされている。家庭において、女性は料理・掃除や子どもの世話などの仕事のほとんどを担い、家の外でも水を運んだり、野菜を植えたり収穫したりする。

 市場で女性が野菜その他の産物を売っている姿がよく見受けられ、家庭の金の管理を任されているのに、収穫した米や保管した米の売却など大きな財政取引に関する決定をするのはたいてい男性である。

 男性はまた財政に関する家庭内の大きな決定を下すのである。(シャンの諺に「男が妻のしりにしかれたら、借金に陥る」と言われているように)

 シャンのほとんどは仏教徒で、宗教上の慣行によって女性は社会で従属的な地位を強いられている。男性だけが僧になり、地域社会の主要な宗教上の儀式の役割を担う。したがって、大いに尊敬もされ、権力も握るのである。女性は尼僧になることはできるけれども、僧よりも地位は低く通常尊敬されることはない。

 伝統的なシャンの社会では、村の唯一の教育機関は寺で、修行僧となった少年のみが教育された。今日のシャン州でも村によっては同様の状態だ。この事実と、女の子はいずれ妻となり母となるのだと思われていることとも相俟って、たいていの家庭では息子の教育を優先することになる。

 従属的な地位にあるため、女性は人前では控えめにするものとされ、男性とは違って、結婚前は純潔を求められる。結婚前に純潔を失う女性は「汚れている」と言われ、婚外の性交渉を持つ女性はたとえ強要された場合でも非難されがちである。だから自分の住む地域社会から非難されることを恐れて女性は強かん事件の報告をしないのである。

 にもかかわらず、過去において、農村部のシャンの女性は強かんの加害者を罰する訴訟手続きをすることができた。事件は村の長老に報告され、有罪となれば、女性やその両親や村の長老に対して男性は罰金を支払わされた。女性はまたビルマの刑法で裁いてもらうよう町の裁判所に訴えることもできた。

(ビルマ刑法だと強かんの最も重い刑は懲役10年である)

 だから性暴力の場合も女性にはある程度の法的な保護があった。しかし、ビルマ国軍が法律をないがしろにしたので、法の保護がなし崩しになってしまった。この報告書の数々の強かん事件でシャンのサバイバーの女性は、地域社会で法の裁きを求めて慣習に従い両親や村長に頼るのだが、周辺のビルマ国軍の行使する絶対的な権力によって不利な扱いを免れないのである。

この報告書に集められている情報は過去6年間にビルマ国軍によって行われた強かん事件を網羅している。しかしながら、性暴力は過去40年間ビルマ国軍が1950年代に民族的抵抗勢力に対する作戦を初めて以来シャン州では日常茶飯事であった。

 内乱という状況の中で、ビルマ部隊は地元の女性に対して不処罰で性暴力を行えたのである。抵抗運動の潜在的な支持者として、女性は正当に暴力の対象とみなされたのである。性暴力は地域社会に降伏を迫るだけではなく、敵の女性に対して占領軍の力をひけらかして抵抗勢力に屈辱を与え、士気をくじくなどいくつもの目的にかなっている。さらに、戦争で戦う部隊への「褒美」の役目もあるのだ。

 軍政は過去10年間軍を増強し続け、少数民族が住む州では部隊の数を増やしてきた。その結果、性暴力の増加は避けがたいものとなった。

 民族的な要素も暴力への志向を悪化させている。様々な民族の州で軍政は周到に他の民族出身の部隊を戦略的に配置している。地域社会から部隊を孤立させること、プロパガンダによって火に油を注がれたビルマ民族の愛国的感情は、地方の少数民族の文民に対する性暴力をはじめとした暴力を助長する。

 ビルマは1949年のジュネーブ条約調印国であるにもかかわらず、軍政は軍の内部でこれら国際法を守らせる努力をしたことがない。この報告書を読む際には、以下の言葉を頭においておかなければならない。

 戦争犯罪は1949年のジュネーブ条約の重大な違反であり、国際間・国内どちらの武力紛争において大々的に行われる戦争に関する法律の深刻な侵害でもある。重大な違反を定義するのに、条文では強かんや性暴力と言う言葉は使用していないものの、国際赤十字は強かんをどちらも重大な違反とされる「拷問や非人間的扱い」もしくは「意図的に肉体や健康に多大な苦痛や重傷を負わせること」の例にあげている。

 集団虐殺とは特に列挙された禁止行為(殺害や重傷を負わせるなど)が一国民、一民族、一人種もしくは宗教グループを全面的もしくは部分的に滅ぼす意図で行われることである。ビルマは大量虐殺罪の防止と処罰に関する条約(集団虐殺条約)の締結国ではないが、条約はおそらくすべての国家が守るべき慣習的な国際法となりつつある。

 人権に対する罪とは特に列挙された禁止行為(至極深刻な性質の非人間的行為)が国、政治的、民族的もしくは宗教的立場の民間人に対する広範囲の組織的な攻撃の一部として行われるものである。そのような行為には殺人、皆殺し、強かん、性奴隷、人の強制失踪、及びアパルトヘイトの罪がある。

 集団虐殺と人権に対する罪は平和時戦時を問わず処罰できるものだ。

シャン州にある9つの武装集団のうち、現在、軍事政権と停戦合意を結んでいないのは、わずか1集団(シャン州軍南部方面軍:SSA-South)にすぎない<注5>。にもかかわらず、軍政当局はシャン州での軍備を1988年以来ほぼ3倍に増強してきた。

 ビルマ国軍の12地区司令部のうち、シャン州には3司令部が置かれ、以下の数の歩兵大隊を擁している。

北東地区司令部 38歩兵大隊
東部地区司令部 31(Karennni州駐屯部隊を除く)
三角地区司令部 37
軽歩兵大隊第55師団 10
合計 116歩兵大隊<注6>

 ビルマにはおよそ500の歩兵大隊があると思われる。つまり、ビルマ軍の4分の1がシャン州に駐留していることになる。

 <注5>ミャンマー民族民主連合軍(コーカン人)(The Myanmar National Democracy Alliance Army)、ワ州連合軍(United Wa State Army)、民族民主連合軍(シャン人とアカ人の武装組織)(National Democratic Alliance Army)、シャン州軍北部方面軍(Shan State Army (North))、カチン防衛軍(Kachin Defence Army)、パオ民族機構(Pa-O National Organization)、パウラン州解放軍(Palaung State Liberation Army)、シャン州諸民族人民解放機構(Shan State Nationalities People’s Liberation Organisation)、シャン州民族軍(シャン州軍-北部)、シャン州軍南部方面軍(the Shan State Army (South))。

 [翻訳者注:名称は「ビルマ市民フォーラム」HPの「停戦に応じたシャン州内の組織一覧」を参照]

 <注6>資料は全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)、シャン・ヘラルド・エージェンシー・フォー・ニューズ(Shan Herald Agency for News)に基づく。

5.「戦闘手段」として容認される強かん<注7>

本報告書のために収集した証拠は、シャン州の一般民間人に対する反ゲリラ掃討作戦において、ビルマ軍事政権の各部隊が強かんを武器として組織的に用いていることを明らかにしている。結論として、本章で以下に述べる多くの事実により、軍当局は強かんを戦闘手段として公式に容認していると言える。

 <注7>旧ユーゴ国際刑事法廷(ICTY)のクラナッチ、コヴァッチ、ヴコヴィッチの裁判[訳者注:Kuranac, Kovac and Vukovicの読みは『旧ユーゴ戦犯法廷』のHPで確認(http://member.nifty.ne.jp/uwfj/icc/icty2000.htm#20000209)]は、「戦闘手段(’weapon of war’)」の使用について論じ、これはボスニアのセルビア人武装軍に対し作戦行動の一環としてイスラム教徒女性を強かんせよ、と命じたある種の一致した方法または命令を意味するものであるとした。クラナッチ、コヴァッチ、ヴコヴィッチの判決に関するプレスリリース、『ザ・ヘイグ』(The Hague JL/P.I.S./566-e.)参照。

5-1.組織的・広域にわたる強かん5-2.強かんを行った軍幹部5-3.強かんされた女性らの拷問と殺害5-4.集団強かん5-5.軍の基地内での強かん5-6.強かんを目的とした長期的な拘束5-7.加害者訴追の欠如と訴えに対する懲罰

 強かんには汚名がつきまとうため、多くの女性が性暴力の被害を届け出ないことに留意しなければならない。しかも、シャン州の人権侵害に関する情報の大半は、タイ・ビルマ国境までやってきた難民から得ている現状なので、多くの強かん事件の情報がシャン人権基金(SHRF)まで達しなかった場合もあると考えられる。したがって、本報告書の数字は、実際の発生件数をはるかに下回る可能性がある。

 本報告書では、過去6年間にわたる強かんおよびその他の形態の性暴力の発生について記したが、概略は以下の通りである。

 年   発生件数   少女の推定人数   女性の推定人数   場所 
1996 5 4 6 5郡
1997 30 25 157 11郡
1998 30 18 38 13郡
1999 26 17 71 13郡
2000 33 13 69 17郡
2001 44 15 186 17郡
合計 168 92 527  

 2001年は、強かん発生の記録件数も、強かんされた少女や女性の人数も、近年の傾向をはるかに上回っていることが読みとれるだろう。軍政側は現在シャン州では「和平」回復が実現したと主張しているが、そうした主張とは裏腹に、当局の軍隊は民間人に対する人権侵害をこれまで以上のペースで続けている。

 本報告書のために報告され記録された強かん事件には、ビルマ国軍から合わせて52歩兵大隊が関与していたこともまた、重要な点である(付属文書4参照)。この事実は、ビルマ国軍の全階級を通じて、強かん行為が容認されていたことを示す有力な証拠である。

 強かんが軍当局から容認されていたことを明確に示す事実の1つは、本報告書が立証した強かん事件のうち、83%が上官によって行われたことである。その階級は、下記の犯行者内訳が示すとおり、伍長から少佐まで及んでいる。

 上官の階級強かんの件数

指揮官・上官(階級不明) 48

少佐 14

大尉 63

中尉  5

軍曹  6

伍長  3

合計 139

 その犯行時の大半(85%)の場合、これらの上官らは他の兵士らとともに任務に就いており、犯行を隠蔽する意図をいっさい示していない。事実、犯行のうち10件では、上官らが被害者(または被害者ら)を現に部下に引き渡して、集団強かんや殺害に至らせている。

 Murng Hsat郡の村に住む3人の女性(18歳、21歳、24歳)が、村から西に2マイル離れた道路近くの森で薪をとっていたとき、第359軽歩兵大隊の兵士80人が女性らをとらえて尋問した。しばらくすると、Htun Kyaw大尉が最年少の少女を近くの茂みに連れ込んで強かんした。その後、大尉は3人全員を部下の幹部に引き渡して、強かんせよと命じた。その後、兵士らはこの女性全員をこん棒で撲殺した。(事例105)

性暴力に与した将兵らは遠慮のない極度の残虐性を示しているが、ここからはっきり見えてくるのは、強かんが同時に拷問などの他の暴力行為を伴っており、地元住民に恐怖を与え服従させる作戦の一端を担っていることである。記録された強かん事件の25%で、少女や女性は強かん後に銃で撃ち殺されたり、窒息死させられたり、撲殺・刺殺されたり、焼き殺されたりしている。

 実証された事例の多くの場合、女性たちは強かんされただけではない。殴打されたり、頭部をビニールで覆われて窒息させられたり、乳房を切り取られるなど、他の身体的拷問も受けているのである。次の例では、被害女性は殴られて意識を失い、強かんされた。また、妊娠中の姉は殺害された。

 彼女の義理の兄は、米と他の食料を取りに村に戻る途中だった。軍隊が農地を通りかかったとき、見えたのは2人の女性だけだった。兵士らは、この女性たちがシャン族兵士の妻だと言いがかりをつけて殴りつけた。2人はMark Mong Pawk村のただの住民に過ぎないと説明しようとしたが、兵士らは耳を貸さず、こん棒で姉を殴り続け、姉は気を失った。姉は妊娠していると言って、ひどいめにあわせないように彼女が哀願すると、兵士らは姉の子宮を棒で突きさえした。兵士らが姉の子宮を棒で突くのを止めさせようと、彼女が割って入ろうとすると、指揮官が彼女の頭をこん棒で殴りつけたので、彼女は意識を失った。気がつくと、指揮官は小屋の中にある自分たちのベッドに彼女を引きずり込み、彼女を強かんした。強かんを終えると、指揮官は彼女が再び意識を失うまで殴打した。もう一度意識を取り戻したとき、彼女はまる裸で横になり、小屋のすぐ外には姉の死体が横たわっていた。兵士らは跡形もなかった。兵士らは、彼女のお金2000チャットと金を持って、行ってしまった。(事例64)

 ほとんどの場合、強かん被害者の死体を隠す努力すら払っていない。それどころか、次の事例では、地方の少数民族を威圧する手段として、時には故意に被害者の強かんや殺害を行ったことがわかる。

 12歳の少女が、強制移住させられたLaikha郡Nawng Kaw村付近の野原で牛の餌にする干し草を採っていたとき、Kho Lam基地のSLORC<注8>軍に強かんされ、射殺された。親戚の何人かが銃声を聞いて見に来たが、兵士たちに止められた。親戚たちが少女の遺体を埋葬する許可を求めると、兵士たちはこう言った。「シャン州のおまえたちの部族の見せしめにするため、この娘はそのままころがしておくしかない。もし埋めるなら、おまえたちも死んでもらう」と。(事例15)

 <注8>国家法秩序回復評議会。現ビルマ軍事政権の改称前の名称

 収録した強かん事件の61%は複数から強かんされている。こうした強かんは集団で行われ、目撃される怖れをまったく感じていない。

 集団強かん事例の多くの場合、被害者は以上の例と同じく、軍によって殺害された。しかし、女性たちが解放されているケースも若干あることから、加害者たちが強かん事件の引き起こす反発をいっさい懸念していないことが明確にわかる。

 3人の女性(18歳、35歳、37歳)がKho Lam地帯にある自分たちの農地にいたとき、Than Maung大尉が指揮する第99歩兵大隊の兵士80名に捉えられた。女性らは3泊4日にわたり拘束され、その間繰り返し複数の兵士により強かんされた。その後、女性たちは解放された。(事例116)

 強かん事件のうち11件は実は軍の基地内で発生したものであり、軍関係者のみならず基地付近の地元住民も十分承知していた。この事実から、軍政側兵士たちが恩恵をこうむると考えた免責の範囲が示唆される。

 特筆に値するある事例では、Lai Kha出身の2人の女子高校生が、学校集会で軍政当局の政策に公然と反対意見を述べたところ、この2人は国軍兵士によって衆目の面前で逮捕され、地元の軍基地に連行されて、4昼夜にわたり指揮官により強かんされた。これは「懲罰」として行われたものと見られ、この後身代金と引き替えに解放された。

 Lai Kha町の中等学校(生徒84人が6年まで学ぶ)で学校集会が開かれた。講演を終えた校長が質問はないかと生徒たちに尋ねた。すると、5年生に在学する17歳の女子生徒が次のように質問した。「政府軍を名のるビルマ人兵士たちが、なぜここまで国民を抑圧するのか、理由を聞きたいと思います。多くの村人が町に強制移住を強いられ、町で暮らして生計を立てるために苦労しています。この人々の悲惨さを私はこれまで見てきました」。もう1人、6年生の18歳の女子生徒も質問した。「政府軍はなぜLai Kha町の市場を閉鎖したのですか? この市場は長い間ここで開いていました。でも今では、政府軍の手で2-3週間閉鎖されたままで、まだ開かれていません。なぜなのですか? 政府軍がシャン族の軍隊に腹を立てているのなら、シャン族の軍隊を攻めた方がいいと思います」。答えをためらう校長の目の前で、学校の保安任務に就いていた国軍部隊の兵士2人がこの少女たちに呼びかけ、おまえたちは軍基地に行き、指揮官に尋ねるべきであると語って、2人をLIB 515基地に連行した。指揮官は少女たちを監禁した。夜になると、指揮官は少女の1人を自分の寝室に連行し、ピストルを突きつけて、服を脱ぐように命じた。それから一晩中、この少女を強かんした。翌朝、指揮官はもう1人の少女を連れてきて、1昼夜にわたり強かんした。4昼夜にわたり交互に2人を強かんしたあと、指揮官は、1人当たり15,000チャットの身代金を親に要求した。(事例91)

事例のうち24件で、女性たちは強かんを目的とする当局軍により最長4ヵ月間にわたって拘束された。ここでもまた、報復の懸念なく「慰安婦」をおおっぴらに利用するという状況から、軍隊内での強かんを免責に付する気風が読みとれる。

 農地で働いていた村人、女性4人と男性6人が拘束されて、強制的に軍事物資の運搬に駆り出され、軍隊と同行させられた。その間、軍は強制移住させられた地域の人気ない村々を見回り、日が暮れるとどこででも露営し、時として1ヵ所に2?3日留まった。女性たちは毎晩、いずれかの兵士に強かんされた。これらの一般住民は、不払いの軍用ポーターとして連続4ヵ月(2000年8月7日から2000年11月20日まで)奉仕を強制された。この間、女性たちは同時に性奴隷として奉仕を強制された。(事例120)

 本報告書の証拠が明らかにしているのは、軍当局側には、将兵の中で強かんを犯した加害者を裁判にかける真剣な取り組みが全く見られないことにとどまらない。被害届の提出者に身体的暴行を加えたり、投獄や罰金に処したりすることで、通報の動きを積極的に封じていることがわかる。

 本報告書に収めた強かん事件の大半で、被害者は性的虐待の事実をまず家族の1人に告げ、次に村長または地域のリーダーに告げていた。話を聞いた側は一緒になって、被害を受けた少女や女性に対し、最善の対応策を助言するのだが、多くの場合(22件、13%)、村長は事件をこれ以上表沙汰にしないように家族に助言している。裁判に持ち込めないばかりか、被害届を出した本人に危害が及びかねない、という理由からである。ある事例では、強かんを通報した村長自らが国軍兵士に殴打され、拷問を受けて死に至った事実があり、地域の指導者がこうした問題に関わる意思を阻害する要因を示している。

 村長は、Soe Hlaing大尉が(19歳の少女を強かんし、殺害した後)農家を立ち去るところをひそかに見ており、何事が起きたかを見て取ると、Ke-See町に行って、町の地域指導者に事件について訴えた。この大尉は、自分が村長から強かんと殺人の容疑をかけられていることを話に聞いた。1998年12月13日早朝午前4時半頃、大尉と数名の兵士がNawng Kaw村にやってきて、村長の家を包囲して家宅捜査した。しばらく捜査した後、兵士らは村長宅で携帯用無線電話器を発見したと告げ、Soe Hlaing大尉はただちに村長の逮捕を命じた。この無線電話器は、村長にぬれぎぬを着せようと、予め大尉の配下の兵士らがこっそり仕込んだものにちがいない、と村人たちは確信した。大尉と兵士らは村長を家の柱に縛りつけ、殴打と拷問を加えながら村長を尋問した。彼らは村長に無線電話器の入手先を尋ね、シャン州の反政府勢力からもらったに違いない、などと言いたて、村長を自宅の柱に縛りつけたまま、喉に熱湯を注いで殴る蹴るの暴行を働き、ついに死に追いやった。(事例70)

 この他に、少女や女性が軍当局への強かん被害の届けをあきらめた要因は、まず、被害者にはビルマ語が話せないことがある。このため、届けた後の裁判手続き中に明らかに不利益をこうむると思われる。次に、強かん犯の名前も所属部隊も知らない。したがって、事件の立証可能性がほとんどないと認識したことである。

 それでもなお、報告書の強かん事件のうち37件(21%)までもが、被害者本人や親戚、地域指導者たちがあえて軍当局に届けを出している。犯人(Murng Hsat の国軍砲兵大隊員)が指揮官によって処罰されたのは、そのうちわずか1件(1997年4月)にとどまる。

 「その晩、村長が自分の農地から戻ってくると、私は何が起きたかを洗いざらい村長に話しました。村長はそこで国軍部隊の地元駐屯地の指揮官に訴えました。指揮官は私を強かんした兵士を縛りあげ、牢屋に入れました。」(事例24)

 しかしながら、この事例ですら法的手続きを経たようには見えない。したがって、当該犯人が最長10年の禁固刑に処された可能性は低い。

 11件は軍政当局の幹部が届けを受理したが、その以上の措置は講じなかった。9件では、被害者が犯人を特定できるように、軍政当局の幹部が80人もの兵士らを「整列」させたが、故意に犯人を列から除外した。1件では、決定的な証拠を欠いたとして、届け出た村長が気を失うまで殴打され、拘禁された。この村長は、強かん被害者の家族が身代金2000チャットを支払ってようやく解放された。ほかの事例2件では被害者自身が投獄され、最高2万チャットを解放に要した。ほかの1件では村長と村長代理が投獄され、5500チャットの支払いができるまで監禁された。このほか3件では、届出人は投獄されなかったものの、軍の名誉を傷つけたかどで最高3万チャットを支払わざるを得なかった。

 整列した兵士たちから犯人が特定できた事例は1件のみである。これは、停戦中のシャン州武装勢力の1つの幹部が介入した結果と思われる。しかしこの件でも、犯人特定後になんら踏み込んだ措置は取られなかった。

 通例、軍政当局の幹部は告発を完全にはねつけている。彼らは、こうした事例のうち3件で、犯人は犯行当時には当該地域にいなかったと主張し、1件では犯人が長期にわたって配置換えさせられていたと申し立てた。注目すべきことだが、こうした事例のうち2件では、告発された幹部が実際に別の部隊に移転させられていた。

 軍政当局が告発を完全にはねつけた11件中7件では、被害届を出したかどで届出人が処罰された。3件では届出人が身体的虐待を受けた。具体的には、被害者が気絶するまで殴られ、被害者の1人の父親が殴打され、村長1人が平手打ちされた。6件では、被害届を出したのが理由で、届出人が6万チャットもの罰金を科された。1件では、被害者の父親が逮捕・拘禁され、解放と引き替えに雌牛1頭を村長から差し出した。

 また、診察結果があれば、強かん告発の根拠に用いることができるのだが、本報告書に収めた事例のうち1件たりとも、軍政当局が強かんされた被害女性に対し、適切な診察を受けるよう求めた例はない。こうした対応からも、当局には犯人を司法の裁きにゆだねる真剣な意志がないことがわかる。

 11件については、女性たちが自ら、あるいはその家族が治療の手はずを整え、強かんによる傷害や病気を診てもらったり、伝染の可能性を調べるために血液検査をしてもらったりした。2件では、病院の職員が性的虐待の証拠を文書に記録し、1件(5歳の少女が自宅で1人の国軍兵士によって強かんされた)では病院職員が写真まで撮ったうえ、事件を通報しよう、と述べた。しかしながら、それ以上は何の措置も取られなかった。1件では、殴打・強かんされた女性を治療した病院職員が、けがをした理由は本当のことを言わない方がよい、と女性に助言した。つまり、医療関係者自身が軍当局を怖れるあまり、事件について法の裁きを強く要求する勇気がなかったことになる。

 のちに彼女が頭皮の裂傷を治療するために病院に行くと、どうしたのかと訊かれた。彼女が国軍の兵隊たちに殴られたと答えると、医療スタッフは彼女にこう言った。木の枝が落ちて頭を打ったと言いなさい、そうしないと、兵隊たちがいずれ戻ってきて、あなたをひどい目に遭わせますよ、と。彼女は恐ろしくなったので、2-3日後にタイ国境に出立した。(事例64)

6.強かん被害の増加を招く軍事化の進行
6-1.強制移住6-2.強制労働6-3.移動するパトロール:責任の欠如

この報告書付属の地図(付録3)を見ると、強かん事件の大半(76%)が、シャン州の中心部に集中している。そこは農民が強制移住させられた場所である。

 ビルマの軍事政権は長年農村からの強制移住を行ってきた。農村の人々のレジスタンス軍支援を妨害するためである。シャン州における強制移住作戦(現在も進行中)は、1996年から1997年にかけて最大規模で実施された。その時期、軍事政権は、1,400を越える村々(300,000人を越える農村の人々、大半が農民)に銃口を向けて、幹線道路とビルマ軍の基地近くにある強制移住地へ戦略的に強制移住するよう命令した。この村人たちは、自分たちの土地と暮らしを奪われたばかりか、軍事政権から全く何の援助も得られず、多くの者が日雇い労働者や物乞いにならざるをえなかった。結果、推定150,000人のシャン人がタイへ逃亡し、移民労働者として生き延びようとしている。数万人が故郷の村近くの森に隠れている。

 この強制移住作戦のせいで、女性はいろいろな方法で、ますます襲われやすくなっている。

6-1-1.強制移住中の村人への強かん

村人が強制移住させられるときは、通常決められた日(通常3~7日後)までに村から退去するよう口頭で或いは文書で命令された。最終期限を過ぎて村にいるのを見つけたら撃ち殺すと言われた。しかし多くの場合、軍事政権の軍隊は最終期限まで待たずに、強制退去命令が出てすぐか、あるいは移動している最中に暴力をふるったりした。

 村人たちにふるわれた暴力は、殴打などの拷問、家のなかで生きながら焼き殺すこと、そして強かんであった。

 この報告書に書かれている強かん事件の6%は、村人たちが強制移住中に起こった。

 シャン族のある5人家族は、Mark Kawk村の田園近くの一軒家にいたのをSLORC部隊が来て見つけた。村はLaikha強制移住地に強制移住させられた。そこへ行く途中、何かの理由で休憩していたのだ。兵士は父親を縛り上げ、小屋の梁にロープで吊るして下から火をつけ、火あぶりにした。それから10代の少女を集団強かんし、最後に殺してしまった。数日後、父親は拷問に苦しみぬいた後、死んでしまった。母親は、夫が拷問され、娘が強かん殺害された苦しみから、ついに精神が不安定になった。(事例第17)

6-1-2.強制移住地外での女性に対する強かん

 指定地域に強制移住させられると、村人たちはもとの村や畑に戻ることを禁じられるだけでなく、通常は半径2-3マイルの範囲内から出られない。それより外のエリアはビルマ軍が「自由に狙撃できるゾーン」とみなされた。そこで発見された村人は、反乱者とされ、見つけ次第狙撃される。

 このような制限は当然、村人たちには耐えがたいものであった。村人たちの暮らしは、畑だけでなく、森にも依存していた。森で食べ物、たきぎ、水を得られた。

 最初から、強制移住地に行くのを拒否し、命の危険を冒しても、もとの村の近くの森に隠れた方がましだという村人たちもいた。こっそり蓄えた食糧で生き延び、ひそかに農園を耕せればと思っていた。

 また最初は強制移住地に行ったが、その後こっそりともとの村に戻り、ひそかに持ち物を取り戻そうとしたり、穀物をこっそり植えようとする村人もいた。

 この報告書に記録されていた強かん事件の14%が、もとの村やその周辺で、パトロール中のビルマ軍に捕らえられた村人たちだ。反乱軍兵士の妻だとか、反乱軍兵士に食糧を与えたという理由で告発された。当人やその家族は、反乱者がその地区でどのあたりにいるのか白状せよと拷問された。多くの場合、女性は強かんされてから殺害された。

 1996年から1997年以降、農村地帯周辺から町(Kung Hing)へ強制移住させられた人々の中から犠牲者が出た。仕事もなく、農場も使えない状況でその町で生きていくことは、たいへん困難だった。1999年8月から、多くの農民が、自分たちの農場の近くに、農作業の間、宿泊したり休憩したりする小屋を秘密で建て、事件が起きる日まで、こっそり行き来していた。民間から強制的に集めた26人のポーターをつれた部隊が、Nam Paang 川の土手沿いに捜索し、小屋を見つけ次第包囲し、中にいる者を捕まえ、小屋を焼き払ったのだ。兵士は、3人の農夫を集め、拷問し、ひとりひとり取り調べ、この地域でシャン族兵士の居場所を教えるよう要求した。しかし農夫は知らないと言った。取り調べは続き、殴るやら拷問するやらで、農夫は次々と死んでいった。死体はNam Paang 川に投げ込まれた。女性2人が軍に連れ去られ2日間昼も夜も上官全員から集団強かんされ、最後には射殺された。(事例第97)

 実際には、女性たちが要求して、もとの村に帰ることを許可すると書かれた当局の通行書を持っていた場合も数件あったが、強かん・殺人防止にはならなかった。

 1998年5月、Kho Lamに強制移住させられていた多くの村人達は、Nam Zarngにある軍政当局から、村の外にある農場に行って働く許可を申請していた。19人の村人たちが何とかNam Zarngの当局から通行証を得、Kho Lam の地元軍事キャンプの指揮官Han Sein大尉からも、Kho Lamからおよそ4マイル西の農場で働く許可を得ていた。村人たちは1998年5月から6月までその農場で働いていたが、第246歩兵大隊所属の兵士たちに見つかり、遠くから銃撃されたのである。村人は全員近くの森に逃げ込んだ。負傷者はなく、兵士はしばらく農場を捜索したあと、立ち去った。しばらくして、ひとりの女性がおじと一緒に、兵士がほんとに立ち去ったと思って農場に戻った。小屋から服やベッドを持って村へ戻るためであった。しかし小屋に着くと兵士達が戻ってきて捕らえられてしまい、おじは殴り殺された。女性は服をはがされて何度も強かんされ、最後に小屋の中で銃殺されてしまった。その後、部隊は農場を去り、Kho Lamに移動した。(事例第49)

 強制移住させられた村人たちは、強制移住地に近接した地域で耕作したり食料を求めたりすることが許されていたようだが、この報告書によると、強制移住地のごく近くで27もの強かん事件が起こったことになる。ほとんどのケースでは、女性が捕らえられたのは単に、生きていくための、たとえば種をまいたり、食べ物を集めたり、薪や水を取ってくるとか、行商するなどの単なる日常の仕事をしていたときであった。

 Kung Sa村出身の16才と17才の少女2人は町へ強制移住させられていた。2人は町の西方およそ半マイルの牧草地で牛を見張っていた。Thein Win 大尉率いる第55歩兵大隊第3中隊所属の兵士ら50から60人が少女を見つけ捕らえた。兵士はこっそり少女と牛4頭をキャンプへ連れて行き、5泊6日間監禁した。その間2人の少女は、大尉や上官に繰り返し強かんされた。4頭の牛も兵士たちの手で殺され肉にされた。部隊はパトロールに出かけなければならなくなったとき、兵士たちは少女を連れて行った。森の中の遠く離れた場所に着いたとき、大尉は少女を射殺するよう兵士たちに命じた。(事例第111)

6-1-3.強制移住地内での女性に対する強かん

皮肉なことに、実際には、強かん事件の6%が強制移住地内で起こっている。強制移住地内では、ビルマ軍の命令に従っていれば、村人は「安全」だと思われていたというのに。このように、政府軍は強かんに関しては処罰しないことがはっきりしていたし、強かんすると「処罰される」という口実を、必要とさえしていなかった。強制移住地の大半がビルマ軍の基地に隣接していたため、強制移住させられた村人たちはますます襲われやすくなっていた。

 16才の少女がWan Nong Kun Mongの強制移住地内の家でひとりで留守番していたところ、Than Kyaw 大尉率いる国軍兵士たちが家の中に入ってきて水を飲ませるよう要求した。大尉は彼女がひとりだと知り、座り込んで、仕事のしすぎで腕がこっていて痛むからと言って、腕をマッサージするよう要求した。少女はたいそう怯えて、マッサージの仕方がわからないからと断った。大尉はしばらく言い張ったが、少女がなかなか従わなかったため、ピストルを少女に向け、脅した。「俺を知らないのか。軍の大尉なんだぞ」と言って、腕をつかんで奥の部屋へひきずって行き、ピストルで脅しながら服を全部脱ぐように命じ、強かんした。強かんの後、寝室を物色し、1.2バーツのネックレス2つ、お金45,690チャット、そして冬用のコートを持ち去った。(事例第74)

6-2-1.ポーター労働の強制

女性が襲われやすくなっている大きな原因のひとつは、ビルマ軍によるポーターの強制徴用である。特に地方では軍は村人を強制徴用し、定時パトロール中、攻撃中を問わず物資を軍に運ばせた。一般に男性を徴用することが多かったから、軍が村に到着すると男性がまず村から逃げ出し、女性だけが残ることがよくあったため、やってきた兵士の餌食になりやすかった。

 国軍第154軽歩兵大隊第5中隊がNar Lein村に入ったとき、村の男たちはポーターとして強制的に駆り出されるのを恐れて逃亡し、女性だけが村に残っていた。Kyaw Myint大尉は、14才の少女がひとりで家にいるのを見つけ、兵士に家の外で見張りに立つよう命令した。それから少女を寝室に引きずっていき、平手打ちして強かんした。(事例第171)

 一度ポーターとして徴用されれば、数ヶ月間とか数年もの間、女性たちもひとりになり、襲われやすくなる。強かん事件の6%は、夫がビルマ軍のためにポーターなど強制労働させられていて、不在中に起こったものだ。

 畑仕事をしていた3人の女性のところに兵士がやって来て、夫はどこかと尋ねた。夫は畑にもいないし家にもいないと女性たちは答えた。国軍が3~4日前にポーターにするため連れ去ってしまい、まだ戻っていないのだ。指揮官はひとりの少女を近くの小屋に連れ込み強かんし、顔中血だらけになるほど平手打ちをした。残りの2人の女性は、まず別の上官に強かんされた後、全兵士の手にかかった。ふと気のゆるんだ瞬間をついて、少女が逃げ出した。しかし少女がやっとのことで農場の端まで逃げたとき、農場の外で見張りをしていた兵士に見つかってその場で撃ち殺された。(事例第82)

 記録に残っているある事例では、強かんされた女性は、夫が国軍で荷物を運ばされている最中殴り殺されて、夫をなくしていた。

 強かんされる2年前、Ar Phue(仮名)の夫Ah Kho(30才)はポーターとして徴用されている最中、国軍に殴り殺された。彼女はたったひとり農場に残された。2001年2月、Takhilekの LIN第359基地所属の7人の兵士が彼女に近付いて、銃で彼女を脅した。ビルマ語が話せなかったから、彼女は兵士が言ったことを理解できなかったし、足が悪くて逃げられなかった(障害をもっていた)兵士は1時間、集団強かんし続けた(彼女は後で妊娠した)(事例第135)

 記録されている別の事件では、国軍の上官は、夫に、部隊と一緒に別の場所に行くよう、わざと命じ、その間妻を強かんした。

 第524軽歩兵大隊 のTun Oo大尉は、Naang Aye (仮名)がTon Hppngという強制移住地にいるのを見つけた。それからTun Oo大尉は、Tan Aung率いる30人のビルマ軍にその地区をパトロールするよう命じ、Lung Min村長に命じてNaang Aye の夫Zaai Maung Hlaを呼んでくるよう命じた。Tun Oo大尉は「今日から私の部隊を2日間案内してもらいたい」と言った。夫が留守中、Tun Oo大尉が家に来て中にいるNaang Aye を呼び、「寝室には何があるか、行って見て来よう」と言い、大尉はピストルを彼女の額に当てて脅しながら、寝室へ引きずっていき、午前10時から午後3時まで強かんし続けた。(事例第152)

 女性たちもまた、ポーターとして働かされたり、パトロール中の部隊に「ガイド」として随行させられ、その間、決まって兵士たちの「慰安婦」とされた。この報告書に記されている強かん事件のうち9件が、軍事政権の軍隊で女性がポーターあるいはガイドとして働かされている間に起こっている。

 彼女が男兄弟といっしょに町から約2マイル、農場から1マイルの場所に着いたとき、ビルマ軍に遭遇した。司令官は尋問して、ガイドが必要だから彼女を連れて行くと言った。そしてそのことを家族に伝えるようにと男兄弟に言いつけた。部隊は引き続き周辺地帯に廃村がないか探し続けた。夜に廃村で休んでいたとき、Aung Khin 大尉は、彼女に、自分と同じ廃屋に泊まるよう強要し、強かんしようとした。抵抗されたのでピストルで脅し、気絶しそうになるまで平手打ちをした。それから髪の毛をひっぱって中の部屋へひきずって行き、3つ数えるまでに衣服を脱ぐよう彼女に強要し、さもなければ撃ち殺すと脅した。従うより仕方なかった。大尉は彼女を強かんした。部隊が田舎をパトロールしていた4日間、Kun Hingに戻るまで彼女は毎晩強かんされた。 (事例第65)

6-2-2.別の形での強制労働

さまざまな人権に関する報告書に広く記されているように、ビルマ軍は、連行してきた労働者を使って、とくに農村地帯で、さまざまな不払い労働をさせている。道路建設、兵舎の建設や清掃、道路や村の監視、軍用農園での作業などである。

 この報告書に記載されている強かん事件のうち5件が、女性がこのような軍隊の仕事をさせられていた間に起こっている。2001年4月の事件では、40人の女性が巻き込まれた。国軍第332軽歩兵大隊と第520軽歩兵大隊に、9日から10日間で道路を建設するよう強要され、夜になると女性は男性と別々にされ、兵士が銃口をつきつけ連れ出し強かんした。

 2001年5月、国軍基地での事件。

 地元のキャンプの指揮官が、15人の女性をNam Kat村から軍事キャンプへ連れてきて、衛兵所を掃除するよう命じた。15人の女性が基地に入ると、指揮官は14人には、ほかの指揮官の寝室を掃除するよう割り当て、ひとりに自分の部屋を掃除させた。その女性が部屋に入って掃除を始めると、指揮官がこの女性についてきて、後ろのドアを閉めた。この男はこの女性につかみかかった。「指揮官が私を強かんしている!」と女性は叫んだ。(事例第147)

6-2-3.軍の検問所

道沿いに軍の正規の検問所を設置したのは、反政府活動の取り締まりや、税を勝手に徴用するためでもあると思われるが、そのため村と村の間を行き来する女性を、政府軍がいいようにできるようになった。

 この報告書に記録されている事件のうち5つの事件は、女性が軍の検問所で足止めをくっていたとき起こっている。以下の事例(2001年8月)は、Salaween 川にかかるTa Sarng 橋手前の大きな検問所で起こったことである。

 第225軽歩兵大隊が村人たちの持ち物を探したり尋問したりしている間、Myint大尉は、村人の中から女性を3人選び出し、別々の場所に連れて行って尋問した。兵士のひとりがトラック運転手に「3人の女性は詳しく調べたいから、ここで待たせておくようにとの上官命令だ。すぐ解放されるだろうが」と言って、ほかの村人たちをつれて移動を続けるよう命じた。大尉は3人をひとりずつ自分の寝室に連れて行き、強かんした。3人すべて強かんした後、側近に強かんさせた。それから検問所に配置された21人の兵士全員がその女性たちを強かんした。(事例第157)

シャン州を拠点とするビルマ軍大隊の数が増えている(序章を参照)。また農村地帯にレジスタンス集団捜索のために派遣されたパトロール部隊の数も増えている。

 強かんの大半は、事件が起こった同じ町の基地に駐屯する大隊所属の兵士の仕業であるが、基地から遠く離れた地域をパトロール中の兵士がやった場合もよくある。しかも大半(少なくとも30件)は他の町に駐屯している部隊による犯罪であり、ビルマの他地域の大隊によるものすらある。問題を起こす部隊は、通常、農村地帯で反乱軍捜索のためパトロールを命じられたものが多かった。

 不処罰の文化であるとはいえ、基地から遠く離れた地域に部隊を送るというやり方だから、パトロール中に罪を犯した犯人を突き止めることができる可能性が、ぐんと減っていることは明らかだ。

7.サバイバーたち

本節の主要な目的は、性暴力が強かんのサバイバーに与えた深刻な影響を明らかにすることである。そうすることで、犯人を訴追し再発を防止しそれ以上被害が広がらないようにするという緊急の必要性はもちろん、サバイバーを適切に保護し便宜を図る必要性にも光を当てることである

7-1.身体的健康への影響7-2.精神的健康への影響7-3.家族とコミュニティによる支援7-4.二重の罰:強かんされたことへの非難と社会からの拒絶7-5.強かんそして移住7-6.タイにおける被害者女性への保護と支援の不足7-7.国外追放の危険

この報告書では、ほとんどの事件で、具体的な身体の詳しいことについてよくわからないが、暴行の最中に重傷を負ったことがわかっている事例が数件ある。事件後発見されたときにサバイバーが意識不明だった事例が数件あった。少なくとも2例では被害者は歩けなかった。そのひとつは、妊娠7カ月で集団強かんされた女性だった。そして子どもは未熟児で生まれた。

 Naang Hla(仮名)は気分が悪くしびれていた。ジャングルの中の小屋にひとりぼっちで取り残された。めまいがひどくて立ち歩くことができなかった。頭痛が続き、下痢がひどく、おびただしく出血したので赤ん坊が死亡したと思った。4日たって、まだひとりぼっちでいたところ、子どもが生まれた。妊娠して7ヶ月しかたっていなかった。(事例第160)

 前節で言及したように、病院で治療を受けている女性が、少女を含めて11事例ある。そのうち1例だけ、傷の特徴について詳しいことがわかった。5才の少女が性器に重傷を負って10日間に渡って入院したというものである。またそのうち1例では、患者は5回通院しなければならなかった。そのうち1例では、通院費が17,000チャットもかかり、それを女性自身が負担しなければならなかったという記述がある。

 そのうち5例が、入院はしなかったが、原因不明の病気が数ヶ月続いたという記述がある。

 そのうち1例だけが、サバイバーがビルマ軍兵士に集団強かんされた後、妊娠していることがわかっている。

サバイバーの精神状況に関する詳しい情報はない。それは、この報告で伝わる聞き取りが簡単すぎて、被害女性の感情の奥深いところまで充分検討できないからである。

 事件後の被害者の身体的症状は、明らかに精神状態と密接な関係がある。たとえば不眠症、食欲不振、体重減少、活力喪失を訴える女性もいる。

 「落ち込み」「悲しみ」「不安」の感情を訴える女性もいる。ある女性はこう言った。「何が起きたのかということに思い至ると、動悸がたいそうひどくなる。すべての男性が恐い。」(事例第1)もうひとりの女性は、「事件後秘密にしていた。彼女は人に会ったり話したりしたくなかった」(事例第119)

 サバイバーには、強かん犯人を裁判にかけたいと強く願っている人もいる。裁判がなされなかったことに「怒り」を感じていると語ったサバイバーもいた。

 また同時に、数人のサバイバーは、起こったことに対して「恥」を感じていると言った。共同体の中で、ジェンダーに基づく態度や非難が広がった結果であることは疑いない。(次節「二重の罰」を参照)

 既に述べた事件ではどれもが、被害者がカウンセリングを受ける便宜は図られていない。わずかな証拠から推察しても、サバイバーは緊急にカウンセリングを受ける必要がある。共同体の非難にさらされたサバイバーは特に。

 ある女性が、ほぼ2ヶ月間、繰り返し強かんされ(事例第51)、精神に異常を来したという事実は、強かんされた女性が経験したトラウマのレベルを示すものだ。また別の女性は強かんされた結果、アヘン中毒になり(事例第76)、まだ小さいわが子を捨ててしまった。

 これまで言及してきたように強かん被害者の家族、コミュニティ指導者たちの21%は勇気をもって敢えて軍当局に事件に関して報告をしており、これらの事実により彼らは正義を求めて被害者を支援しているという状況を示している。更に家族の反応が詳述されている10の事例では、夫や他の家族たちは被害者の支えになって彼女の立場を理解したかまたは、彼女を責めることはしなかったということである。

 しかし、注目すべき点は多くの事例において、被害者は事件後実際その家族またはコミュニティのメンバーから責められるという現実があるということである。

これから触れる3つの事例では、強かんのあと恋人や夫からからの非難に苦しむ女性について言及されている。被害者女性の一人は強かんされた後、婚約を破棄され、その婚約者からは会うことすら拒まれてしまった。また他の被害者女性は夫に「ビルマ軍の食べ残し」と呼ばれ詰られたのだった。

 「強かんされた後、夫が帰宅したとき何が起こったのかを全て彼に話しました。そうすると彼は私に向かって激怒し私を殴りました。 強かんされたことにより私と主人の関係は

 無茶苦茶になりました。主人と子供たちは毎日『売女!そんなに売春したかったらお前のためにジャングルの中に掘っ立て小屋をたててやるよ。そしたらそこで思う存分売春できるだろうよ!』もうとても耐えられなくなって離婚するまでは私はこのようになじられ酷く心が傷ついてしまっていました。 その後、子供たちに会いに行ったときに彼らは『売春婦!おまえなんておれら母親じゃない。もう二度と会いにくるな!』と言い放ち、私を追い払いました。そして夫は『お前は自己管理することができなかったんだ。お前は俺以外の男とセックスをした。だからお前はもう俺の妻なんかじゃない。さっさとこの家からでていけ』と私にいったのです。 そして結局私はタイにいくことを決意したのです。」<事例3>

 また道端で女学生がビルマ軍の兵士に強かんされたという別の事件では、彼女は家族からの支援を拒否されてしまいました。

 「私の家族は状況を理解してくれず、私のことを全く支えてはくれませんでした。そして結局家族は私を以前のようには受け入れてくれなくなり、友人たちには蔑まれるようになりました。 私は完全に孤独になりそして絶望に陥りました。 それは1991年私がMurang Hsat 高校の10学年にいたころのことでした。 強かんの直後テストを受けなければならなかったのですが、あまりの絶望感からそのような気にはとてもなれませんでした。そしてこの出来事がすべて、私の人生をめちゃくちゃにしてしまったのです。」<事例1>

 視力に障害を持った12歳の少女が寺院からの帰宅途中SPDCの兵士により強かん未遂に遭い、重傷を負った事件では、彼女はコミュニティから非難を受けることになった。

 多くの村民はナントン(Naang Tong 仮名)が強かんに巻き込まれたのは、彼女が愚かで、上級生と一緒に下校しなかったからだと非難しました。<事例144>

 上述したこれらの事件はコミュニティ内の女性に対する考え方が強かん被害者にとってひどく不当なものであるといことを如実に表しており、これらは緊急に改善しなければならない事実であるといえる。しかしこのように不当な状況が蔓延っている一方、一人の被害者女性が強い意志をもってコミュニティの圧力に屈しなかった事例があることも是非心に留めておいていていただきたい。彼女はそのような圧力に打ち勝つことが自分自身、そして家族の利益に資すると考えたのである。 この事例は(no.135)は被害者女性が妊娠してしまったことに始まる。彼女が妊娠していることが判明したとき、村民たちはコミュニティからの非難をさけるために夫をみつけるよう彼女をせきたてた。体に障害を抱えており、難民であり、そして既に一人の小さい息子を抱えながらも、彼女はコミュニティからの圧力に負けず、シングルマザーでいることを選択したのである。 彼女はその理由をこのように説明している。「これから私たちには困難が多く待ち構えていることは十分に理解しています、でもそれでも義理の父親をつくりたくないのです。 男たちは自分の妻は愛するけれども、彼女たちの子供を愛せない場合があります。 それに一度結婚してしまうと、離婚するのはとても難しいのです。」<事例135>

掲載されている事例の22件において(13%)被害女性は事件後、一人でまたは家族を連れてタイに移住している。

 これらのいくつかの事例においては、被害女性たちは更なる被害を恐れて強かんされた直後に移住をしている。 ここに挙げる事例は村長に勧められ移住をした一人の18歳の被害者女性のものである。

 村長は彼女の身の安全を憂慮しこういった。「もし行先があるのならそこにいきなさい。引っ越し先があるならそこに移りなさい。おまえを襲った兵士達どもともう二度と顔を合わせないようにするのだ。」その後ナンヤン(Naang Yin仮名)は毎夜違う親戚の家を転々として過した。彼女の両親は彼女の身を案じてはいたが、ビルマ国軍からの報復を恐れて敢えて兵士達の罪を問う事はしなかった。 監禁と集団強かんから解放された10日後、ナンヤンの母親は彼女をタイに連れていったのであった。<事例133>

 他の事例の被害女性達は、被害に遭った1,2ヵ月後、また特定はできないがその後タイに移住している。

 タイとビルマのカレン・カレンニ(Karen・Karenni)州の国境とは違い、タイ・シャン(Shan)州国境には正式な難民キャンプが存在しない。 現在のタイ政府の見解では、戦闘を直接的原因として避難し“一時的に住むところがなくなった人々”を難民として認識しており、シャン(Shan)州の反政府活動の取り締まりによる危害からの避難をしてきた者は難民として認識されてはいない。 そのため、1996年の中央シャン州への強制移住後タイヘ避難したおよそ推定150,000人のシャン人難民は国際援助機関によるいかなる保護も人道的支援も受ける資格がないという状況である。よって、彼らは大抵の場合不法な出稼ぎ労働者として働き、日々必要最小限の糧を満たすにもかなりの困難に直面している。また特に女性や子供達はそのような状況において無力であり、人身売買や他の形での搾取の対象となってしまっているのである。

 この報告書はシャン州からのタイヘ避難してくる難民達は迫害の深刻な恐れがあることを明確に示しており、故に彼らは難民としての地位を得るに値しているのである。しかし現実として性的暴力に晒されている女性や子供達ですら保護や援助を受ける権利を否定されているということは非常に痛ましいことである。

 次にご紹介する事例は強かんの被害者女性が2001年8月タイヘ避難し、その2ヵ月後取材に応じたものである。この取材により、シャン(Shan)人の難民女性がタイで直面しているおよそ受け入れがたい状況を明らかにしている。16歳のNaang Hla(仮名)は彼女が妊娠7ヶ月の時夫の目の前で国軍兵士の兵士達に集団強かんされたのだ。彼女の夫は連行され殺された。その後1人残された彼女は早産をした。それから彼女の親戚が彼女を発見し、その後彼らは一緒にタイヘと逃亡した。

 取材をしていた時、彼女の赤ちゃんは生後2ヶ月であったが重い病に冒されていた。母親の授乳によって赤ちゃんはひどい赤痢になっていた。 しかしナンラは市販のミルクを手に入れるだけのお金がなかった。 また彼女は働くほど体力がなく、また医者にいくお金も治療を受けるお金もなかった。<事例160>

 ナンラはタイ南部のオレンジ農園で不法に働いている同じく難民である親戚に支えられて生きていた。しかし、彼らの住む掘建て小屋はオレンジ農園に化学農薬を散布するトラックが常置してある近辺にあった。 よって当然のごとくこの化学物質の影響によりナンラは入院することになってしまった。 彼女の退院後SWANが緊急援助を提供するため彼女に連絡をとろうと努力をしたが、彼女の就労場所であった農園がタイ軍から不法労働者検査のかどで捜索をうけたことにより、彼女は逃亡しその後の行方がわからなくなってしまった。

 シャン(Shan)州での性的暴力から避難してきた女性や子供がタイにおいて保護の対象にならないという事実は、同時に彼らはいつでも国外追放になる危険があるということである。 タイ政府当局は不法出稼ぎ労働者に対して定期的に広範な取り締まりを過去数年行なってきている。またそれにより、単に逮捕されたり国境まで移送されるだけでなく、時には直接ビルマ国軍当局に手渡されることもあった。

 しかしこれはすなわち性的暴力から逃れてきた難民にとっては、これは彼らを苦しめてきたまさにその原因であるビルマ国軍当局本人達の手に送還されることになるということを意味するのである。

 この報告書に掲載されている一つの事例を紹介しよう。1996年4人の若い女性達が村から強制移住させられた後タイヘ避難した。その後チェンマイ(Chiang Mai)における出稼ぎ労働者に対してのタイ当局の取り締まりにより1998年シャン(Shan)州に戻ってきたのだった。彼らはシャン州に戻る途中で親戚と別れ別れになってしまった。そしてその親戚を見つけるために再びタイとの国境へ戻る決心をした。しかしその途中、ビルマ国軍の検問所において国軍により強かんされ、手足を切り刻まれ殺されてしまった。

 彼女らはトラックでムンナイ(Murng Nai)から旅をしていた。 その後サルウィーン(Salwee)を過ぎたあたりで兵士達が女性達にトラックから降りるように命じ、運転手にはムントン(Murng Ton)に彼女たちの荷物を運べと命じた。そして彼女たちは追ってそこに送り届けるといったのだった。 それから2日後、キャンプからムントンに食料を調達しにきた兵士の1人が彼女達の知人の1人に次のような事実を漏らした。それは彼女たちは拘留された当日強かんされ、その次の日胸を切り取られ、殺され、そして埋められたということだった。<事例48>

 しかし、性的暴力の危険性はビルマ国軍側の国境のみ存在するものではない。1999年7月、11人のシャン(Shan)人女性はチェンマイ北部からビルマに移送される際1人のタイ兵士に性的に暴力を受けた。内2人の女性は強かんの罪で彼を告発しようとしたが、脅され代わりにお金をつかまされ口封じをされた。そのタイ軍兵士はその後他のポストに異動させられ、減俸に問われただけであった。

8.国際的犯罪としての性的暴力

歴史的にみると、強かんは女性の名誉と尊厳に対する攻撃として位置付けられてきており、暴力の重大な行為という位置付けではなかった。しかし、この過去10年の間、武装闘争の場において女性達が体験してきた被害によりその解釈に対して重要な変化をもたらしたのであった。つまりその解釈に最も変化があった点は国際的犯罪として性的暴力が認識される事例が多くなってきたということである。旧ユーゴ・ルワンダで行われた犯罪を追求するために設立された国際刑事裁判所においても強かんは人間性に対する犯罪ということが明確に言及されている。またルワンダに対する国際刑事裁判所はジュネーブ条約とその第2追加議定書の共通第3条 に対する違反行為として強かん、強制売春、そしてそのほかあらゆる形での猥褻な行為が含まれると言及している。また両裁判所は性的暴力とその罪において有罪となっている被疑者の行為を強かん、奴隷化、拷問の結果としての人間性に対する犯罪であると認識し告発状を発行している。また更には具体的には強かん、拷問、人間の尊厳を蹂躙する行為の結果としての国際戦争慣習法違反、またはある特定のグループの一部または全体の壊滅を意図し強かん、性的暴力を加えることによる集団虐殺などの内容に言及している。

 両裁判所は国際刑事裁判所の設立規程であるローマ規程に基づき設立された。また国際刑事裁判所の法域は集団虐殺、人道に対する罪、戦争犯罪そして侵略行為による犯罪に及ぶ予定である。ローマ規程は具体的にそれらを人道に対する罪、戦争犯罪の構成要素として定義することにより、強かんや他の性差に基づく暴力は国際社会に影響を及ぼす最も重大な犯罪の一つであると明確にうたっている。<注9>

 このローマ規程は2002年7月に発効される予定である。またその裁判所は2003年オランダのハーグにて設立されることが期待されている。 そしてその裁判所においては旧ユーゴ・ルワンダ国際裁判所における判決記録に依拠しながら審判が行われることが期待されている。(各々the ICTY, the ICTRと呼称されている)

 一方国際刑事裁判所での司法権行使に関する遡及効は認められていない。つまり、この効力は規程が発効された後に行なわれた犯罪に対してのみ適用されるということだ。しかし以下のような特定の事例についてはその司法権を行使する可能性もある。すなわち、ある犯罪が行なわれた国または被告の国籍が属する国のいずれかがローマ規程の批准国であった場合である。また批准国で無い国にも暫定的に法廷の司法権が及ぶことを承諾する可能性もある。また裁判所は犯罪関係国が規程の批准国であるか否かに関わらず安全保障理事会によって言及された事例に対しては司法権を行使することができるであろう。

 ビルマの民主主義への移行が進行しまたは民主化が行なわれるまでビルマが国際刑事裁判所の司法権下におかれるとはおよそ想像し難い。しかし、今日までの法律学を検証することによって、どのような国際犯罪がシャン州で行われているのかの明確な指標となる。また、ある特定の時期に行われた犯罪、-集団虐殺、戦争犯罪、人道に対する罪、殺人、性的暴力、拷問など-を調査し告発するための臨時国際刑事裁判所が開かれた場合、過去に行われた2つの刑事法廷と刑事裁判所の法律学から学ぶことができるであろう。

 <注9>ローマ規定についてはhttp://www.un.org/law/icc/statute/romefra.htmのArticles 7 & 8.を参照。

8-1.拷問としての性的暴力8-2.集団虐殺の構成要素としての性的暴力8-3.人道に対する罪としての性的暴力8-4.戦争犯罪としての性的暴力8-5.強かんに対する上官責任

強かんは1998年11月ICTYにおいてセルビチ(Celebici) 事件判決までは拷問としての認識されていなかった<注10>。4名の被告の1人であり、Celebici囚人キャンプのボスニアムスリムキャンプ準司令官ハジム・デリク(Hazim Delic)はジュネーブ条約の重大な違法者として拷問の罪に問われ、また1992年キャンプ内において2名のボスニアセルビア女性囚人に対して強かんを行なったことにより国際戦争慣習法違反の罪で有罪となった。

 第一審裁判部において国際法の下では強かん行為は疑いもなく拷問であると明言されている。また、裁判部は強かんや性的暴力は拷問と同じく深刻な肉体的、精神的苦痛などの被害を人に与えるという点も強調している。拷問犯罪として認識される為に必要な構成要素のひとつにはその行為がある特定の目的のために行なわれたものでなければならないということがあげられる。裁判部はその必要要素として後述事項を承認している。つまり被害者や第三者から情報や告白を得るため、または被害者や第三者が行なった、または行ったと思われる行為に関して処罰をするため、被害者、第三者に対していかなる理由であれなんらかの差別意識に基づいて恫喝しまた何かを強要するための行為であることということである<注11>。被害者が女性という理由により行われた暴力は差別に基づく行為に相当する。また裁判部はそのような暴力行為が被害者の民族性に基づく強かんということに加えて、被害者が単に女性という理由により行われた場合、上述した禁止事項である性差別に基づいた“意図”に該当するということを強調している<注12>。性的暴力はICTYの事例において拷問として認定されている<注13>。

 <注10>「セルビチ判決」(検察vs Delalic、他。事例番号IT-96-21、判決(1998年11月16日))

 <注11>同上、パラグラフ494

 <注12>同上、パラグラフ493

 <注13>例えば、「Furundzija判決」(検察vs Furundzija、事例番号IT-95-17/1、判決(1998年12月10日))。この判決において、クロアチア防衛軍警察特殊部隊所属のVitezという場所における指揮官であったFurundzijaは、ボスニアのムスリム女性を尋問する際、拷問として強かんを幇助、煽動、また実行したとして有罪判決を受けた。法廷は紛争下における拷問の構成要素として、少なくとも一人の役人もしくはその他の当局者の関与を含むものとすると述べた。

ある条件下においては性的暴力行為も集団虐殺の国際的犯罪の手段としてなりえることがある。集団虐殺罪に対する防止および処罰に対する条約(the Prevention and Punishment of the Crime of Genocide 通称ジェノサイド条約)においては、集団虐殺罪とは特定の国民、民族、人種または宗教集団のようなものの一部または全部に対して壊滅の意図をもって行う行為のであると定義されている。確かにこの中に強かん、その他性的暴力行為を特定した条文は存在しない。しかし、その集団虐殺罪に相当する行為として禁止されている行為はいかのようなものが含まれる。集団の構成員を殺すこと、集団の構成員の身体又は精神に重大な危害を加えること、集団の全部又は一部の身体を破壊することを目的とする生活条件を当該集団に意図的に課すこと、集団内における出生を妨げることを意図する措置を課すこと、集団内の児童を他の集団に強制的に移送することなどである。このジェノサイド条約はローマ規程の内容が反映されている<注14>。

 ジェノサイド条約が締結された目的は、特定集団に対する憎悪に基づき最終的には殲滅する目的でその集団に対して肉体的な危害を加える行為を防止しまたその加害者を処罰するところにある。よって集団虐殺の場で性的暴力行為が行われたとき、それはある特定の集団に向けての肉体的な損害を意図して行われた憎悪的示威行為といえる。つまり性的暴力と他の集団虐殺行為をわけて論じること自体に無理があるのである<注15>。

 1998年9月2日に発行された「検察vs. Akayaesu裁判」におけるICTR判決により、はじめて性的暴力が集団虐殺行為の構成要素として訴追されうることになった<注16>。当時タバ(Taba)部落の部落長であったジャンポールアカヤス(Jean-Paul Akayesu)は集団虐殺、人道に対する罪、戦争犯罪の罪で告訴された。具体的には性的暴力が部落敷地内で行われたいたことを認識していた上そのような行為を行われていることを黙認していたという罪である。また彼はそのような行為が行われた現場に立ちあっており、それが一層この行為を助長させたという罪にも問われている。ICTRはタバ部落内、ルワンダ全体で起こった性的暴力行為は集団虐殺行為に相当すると言明している。

 第一審裁判部では性的暴力は集団虐殺罪に要求される特定の意図を伴っていると確信していた。その意図は以下の例からも明白である。例えば多くの強かんは集団墓穴の近くで行われたという事実、また連れ去られる女性たちはその後死刑のために集められるといった発言が行われていたという事実である。<注17>

 裁判部はまた“集団内における出生を妨げることを意図する措置を課すこと”の文言の意味することを考究した。そして生殖器への損害、強制不妊治療、強制避妊、意図的な妊娠などの性的暴力に対して特に注意をむけた。更に強かんはそれが与える精神的ダメージにおいて集団内における出生を妨げる手段であると認識された。<注18>

 <注14>ローマ規定のArticle 6を参照。

 <注15>「Women, Armed Conflict and International Law」by Judith G. Gardam & Michelle J. Jarvis, Kluwer Law International (2001), 190ページ参照。

 <注16>「Akayesu判決」(検察vs Akayesu裁判、事例番号ICTR-96-4、判決(1998年9月2日))

 <注17>同上、パラグラフ733。195ページ、 Gardam, supra note 15参照。

 <注18>同上、パラグラフ507-508。195ページ、 Gardam, supra note 15参照。集団虐殺としての性的暴力の分類は、ICTRにおいてその後出された判決「Musema判決(検察vs Musema、事例番号ICTR-96-13-I、判決(2000年1月27日))」によって確証された。

戦争状態または平和的状態であろうとも、文民に対する広範囲または組織的な性的暴力行為は人道に対する罪として訴追されるであろう。また人道に対する罪とは具体的には殺人、拷問、奴隷状態、(無実の罪による)投獄、強制売春、強制妊娠、強かん、そしてあらゆる非人間的な行為が文民に対して組織的または大規模に行われていることを指すものである。またそれらが国際的、国内的軍事紛争のいずれの形で行われようとも戦争犯罪といえるのである。

 人道に対する罪を構成する要素として、拷問や強かんははっきりと認識されてきた<注19>。またその強かん以外の性的暴力も非人道的であり人道に対する罪として告発され認識されてきた。また人道に対する罪としての‘奴隷状態’という行為も認識されてきた。

 Akayesu判決ににおいて戦争犯罪として強かんを広範で明確にな定義づけを行ったことにより強かんを他の人道に対する罪と同等に扱えるようになった。ICTRはルワンダで行われた強かんは組織的でありかつ大規模に行われていたことを詳らかにした。またAkayesu判決における強かんへの定義は強かんを単に曖昧な美徳、家族または属する村の名誉に関する汚点行為として認識するのではなく、一個人としての女性の安全に関する攻撃行為という概念であることを再確認させられることになった。加えて、裁判所は裸になることを強制することに関しても性的暴力と定義し、よって他の非人間的な行為を通じても人道に対する罪になりえるということに言明した<注20>。つまりこの判決により性的暴力と認定するために必ずしも具体的な性的行為または肉体的な接触を伴う必要はないという理論が確立されたのである。またICTYのFurundzija 判決においても非人間的行為を通して行われた人道に対する罪が‘重大な性的暴力’に分類することが可能であるという点については確認されている。

 ボスニアセルビア軍の兵士でありオマルカ(Omarka)キャンプの下等職員ダスコタディック(Dusko Tadicc)の事例においては<注21>、彼は性的暴力を含む迫害行為で1997年5月7日ICTYにおいて人道に対する罪で有罪と宣告された。彼は直接性的暴力行為を行ったわけでないが、彼の一般的、広範囲、そして組織的恐怖行為へ参加した事実によって有罪になった。この判決は強かんや性的暴行は文民に対する広範囲、組織的な恐怖行為の一要素をして考慮されるということを示している。また、強かんそのものがはびこりまた組織的に行われていたということを必ずしも立証する必要はなく、強かんが行われた多数の犯罪のひとつであったこと、つまりそれらが広範囲または組織的なものであり、加害者の恐怖行為の一部を構成していたことさえ立証できれば足りるということを示した事例である。<注22>

 ICTYが強かんが人道に対する罪のひとつであるとはじめて認め有罪になったのは、2001年2月22日に判決がおり、クナラック、コバック、ブコビック(Kunarac,Kovac,Vukovic)の事例である<注23>。第2審裁判部では強かんは ‘ボスニアセルビア武装軍によって恐怖行為のひとつの手段として利用された。またそれはいつでも誰に対してでも彼らの好きなように行える手段であった’という見解がくだされたのだ。また裁判では被告の行為をムスリム文民への組織的に行われた攻撃の一部であり、これらの行為の重要な目的のひとつはムスリム文民をその地域から追い出し、この目的を達成するために彼らを二度と戻ってこれない方法を使い恐怖に陥れたのであったと伝えている。また被告たちは女性だけを強かんが行われれる別の場所に拘留するというような一般的な犯罪の形態もしりえていた。また彼らはムスリム女性たちを強かんせよという命令に(そのような命令があったとしても)ただ従っていたわけではない。証拠から彼らは自由意志で行っていたことが分かった。

 Kunarac、Kovac、Vukovicはまた人道に対する罪としての奴隷状態行為の罪で有罪となった。この判決はICTYにおいてはじめて、奴隷状態におくことを人道に対する罪として認めたものとなった。6人の女性は何ヶ月もの間、被告たちの性的奴隷とされており、また被告やそれ以外のものからの集団強かんの対象として繰り返し奴隷として扱われていた。この判決により人道に対する罪としての性的奴隷状態行為に関するひとつの法律的スタンダードが築かれたのである<注24>。

 <注19>ICTY規程Article 5(g)、ICTR規程Article 3。ローマ規程では性的暴力を人道に対する罪として、Article 7 (1) (g) において、「強かん、性奴隷、強制売春、強制妊娠、強制避妊、もしくは同程度のあらゆる形態の性暴力」として広く解釈している。

 <注20>「Akayesu判決」パラグラフ697参照。またMusema判決のsupra note 20参照。この判決によって、Musemaは人道に対する犯罪(強かん)が一般市民に対する広く組織的な攻撃の形態をもった強かんとして行われていたことを知っていたとして有罪判決を受けた。

 <注21>「Tadic判決」(検察vs Tadic裁判、判決(1997年5月7日))

 <注22>同上、パラグラフ704および649。検察vs Blaskic裁判、事例番号IT-95-14、判決(2000年3月3日)、パラグラフ203参照。この判決では人道に対する罪の構成要件について議論されている。法廷では「組織的攻撃」について次の4つの構成要件が挙げられた。

  1. 一般市民に対する広い範囲での犯罪行為、もしくは非人道的な繰り返し行われる、もしくは連続して行われる犯罪行為。
  2. 広い意味での、政治的目標の存在、攻撃が行われることの計画やイデオロギーの存在。つまり、コミュニティーの破壊、迫害、もしくは弱体化。
  3. 軍隊やその他の、公的、私的資源の犯行や行使。
  4. 組織的な計画の定義や設立のための政府高官や軍当局の組織化。

 <注23>プレスリリース「Kunarac, Kovac Vukovic裁判におけるTrial Chamber IIの判決について」参照(The Hague、2001年2月22日、JL/P.I.S/566-e)。

 <注24>同上、1ページ。および、Human Rights Watchによる「Bosnia: Landmark Verdicts for Rape, Torture, and Sexual Enslavement(New York、2001年2月22日)」

 1949年締結ジュネーブ条約、国際戦争慣習法に対する重大な違法行為

 戦争犯罪とは国内、国際的に大規模に行われた1949年締結のジュネーブ条約に対する重大な違反行為またはそのほか国際戦争慣習法に対する違反行為を含んでいる。勿論すべてのジュネーブ条約が国内武装紛争に関して適用されるわけではないが、強かんについては国際人道法内において国内武装紛争内で行われる行為に関しても禁止事項が明示されている。ジュネーブ条約共通第3条では‘生命・人間への暴力’‘残酷な扱い’‘拷問’‘人間の尊厳に対する蹂躙’行為を禁止している。また国内紛争においての文民の保護をうたっている同条約第2追加議定書4条(2)(e)においては‘人間の尊厳に対する蹂躙行為として’特に辱め貶める扱い、強かん、強制売春、そのほかいかなる形での不当な攻撃行為を挙げている<注25>。

 ICTYにおけるFurundzija 判決、Kunarac,Kovac,Vukovicの事例においては戦争犯罪としての強かんの地位が確認されている。特にFurundzuja判決においてはICTYはとりわけ国内武装紛争を扱う同条約共通3条の下において戦争犯罪としての強かんを地位を確認している。また裁判所はFurundzijaはボスニアムスリム女性を強かんしたことにより戦争犯罪を幇助、教唆した罪で有罪としている。 彼の部下が尋問中のボスニアムスリム女性を口、肛門、膣を通じて強かんをした際、彼が‘幇助、教唆または倫理的観点からこの行為に関して寛容だった行為はこの犯罪に対して甚大な影響をもたらしている。’ということが詳らかになった。 一方Kunarac,Kovac,Vukovicは国際戦争慣習法違反行為としての強かんの罪で判決を受けている。

 ローマ規程に拠れば、強かん、性的隷属化、強制売春、強制妊娠、強制不妊処置、そのほかいかなる形の性的暴力も国際武装紛争下でのジュネーブ条約の重大違反にあたり、また非国際的紛争下における同条約共通3条の違反行為にもあたり戦争犯罪とみなされると規定されている<注26>。

 <注25>「1949年8月12日ジュネーブ条約の追加議定書」および「非国際的武力紛争の犠牲者の保護に関し、一九四九年八月一二日のジュネーブ諸条約に追加される議定書(第二追加議定書)」(1977年12月12日から署名が開始)のArticle 4(2) (a) および(e)(U.N.T.S.3, 16 ILM 1442 (1997))。ビルマはこの議定書を批准していないが、これらは国際慣習法であるという見方もある。

 <注26>ローマ規程Article 8(2)(b)(xxii)国際紛争および(vi)国内紛

 旧ユーゴ国際刑事裁判法廷はKunarac、KovacとVukovic事件で、「平時あれ、戦時であれ道徳心がしっかりした男性は女性を虐待しない」として「下位の者であろうが、従属的地位にある者であろうが、そのことによって刑事告訴を免れるものではない」と述べたが、ユーゴ国際刑事裁判所は、性暴力に対する上官責任に基づき多くの個人を告訴した。上官責任の理論は、その部下の行為に責任を負う上官の権威をその根拠とする。

 Celebici判決において旧ユーゴ国際刑事裁判所は、捕虜収用所監視人の国際人道法違反行為に対する上官責任違反を根拠にZdravko Mucicを有罪とした。裁判所は、「Celebici捕虜収用所では犯罪は非常に頻繁に発生し、かつ非常に悪名高いものであった。したがってMucicがそれについて知らなかったか、あるいはそれを知る可能性もなかったなどいうことはないはずである。」と述べた。「これらの犯罪にはMucicの部下による強かん、性暴力が含まれる。」

 Blaskic判決において旧ユーゴ国際刑事裁判所は、Croatian Defence Council (HVO)の大佐(colonel)およびCentral Bosnia Operative Zone of HVOの長官(Chief)であったTihomir Blaskicを、中央ボスニアのモスレム人に対する戦争犯罪や重大な人道に対する罪の計画、準備、実行を命じ、計画し、扇動したか、そうでなくともそれらの計画を幇助し、その計画、準備、実行の教唆をしたことを理由に、有罪を宣告した。

9.結論および勧告

本報告書に収められた証拠により、ビルマ軍事政権がシャン州の人々に対し「兵器」として広範にわたる組織的強かんを行ったことが明かとなった。これはまた、その地域の軍事化が強化されればされるほど、女性と少女たちが強かんに非常に襲われやすくなるということも示す。国際犯罪としての性暴力に関する旧ユーゴ国際刑事裁判所およびルワンダ国際刑事裁判所の判例を調べると、シャン州でビルマ民族が戦争犯罪や人道に対する罪を犯したという重大なケースが存在することがわかる。

 シャン州の中では強かん被害者(サバイバー)は、法的手続や危機に対する支援を求めることは一切できない。タイへ避難した人たちもまた保護を受けたり人道支援を受ける権利を否定される。それどころかいつでも国外退去を免れえない状況にある。

 なぜビルマ軍はこのような組織的で広範にわたる強かんを行い続けたにもかかわらず不処罰のままでいることができたのか。その理由は明らかにシャン州のほとんど、特に紛争地域が世界から隔絶されていたからである。

 ビルマに国際的な人権調査が入ってもこれらの地域に入ることは認められず、また他の地域の場合は軍事政権の厳しい監視下に置かれた。したがってニュースを外部世界に届ける唯一の方法は国境を越えることだけだった。しかしながら軍事政権は、「反対分子」と関連のある情報源から来たものだとしてはねつけたりすることで、国境地帯から届けられるあらゆる報告の信用を落とし続けようとした。国境地帯に赴き難民の話しを確認した人たちは別として、国際社会の中には軍事政権に対し疑わしきは被告人の利益にという(the benefit of the doubt)恩恵を与えようとする人々が徐々に増えている。これは残念なことである。外国政府の中には進行中の内戦、そしてこの民族地域の民間人に対する広範な残虐行為が継続していることを無視し、現在、軍事政権に対しその態度を軟化させ始めたり、援助や投資を始めるものもある。

 アウンサンスーチー氏率いる民主派の反対勢力(opposition)とだけでなく、民族的な反対派勢力(opposition)とも意義ある対話を軍事政権に開始させるために、国際的な圧力が続けられることが必要である。もし全国的な停戦が宣言され、この国の民族問題を解決するための政治的対話が開始されないとすれば内戦は継続し、ビルマの民族地域における暴力の悪夢はなくなることはないだろう。

 今日発生している性暴力の直接的原因が、戦争という文脈の中にあるのは疑いのないことである。戦争を終結し、民族地域を非軍事化し、民主主義と法の支配を回復し、女性とこどもが性暴力から守られるようにすることが急務である。

 シャン州にはジェンダー不平等が広く行き渡っているので、わたしたちは一旦戦争が終結すれば性暴力が完全に終わるなどという幻想は抱いていない。しかし女性たちは、女性の権利のためには民主的な統治と法の支配が必須の前提であると主張する。こうした基礎があってはじめてわたしたちの社会における女性に対する差別は、その完全な終結の方向へと向かうであろう。

わたしたちはそれゆえ以下の勧告を行う:

State Peace and Development Council(国家平和開発評議会(ビルマの軍事政権をになう))に対して:

  1. 直ちに全国的な停戦を実施し、民族地帯において軍事化と反政府武装勢力掃討作戦が増強されないようにすること:
  2. 広い支持基盤を持つ包括的な国家的和解と民主主義の回復を促進するため、アウンサーチー氏との交渉の場に、非ビルマ民族の代表の参加も認めること;
  3. 1949年8月12日ジュネーブ条約共通3条を含む国際人道法上の義務を十分考慮し、民間人に対する武器使用をやめさせ、こども、女性、そして民族的、宗教的マイノリティに属する人々を含むすべての民間人を人道法違反から保護すること;
  4. 1930年に採択された強制労働に関するILO29号条約(Convention concerning forced or compulsory labour)を十分に考慮すること;
  5. 頻発する軍関係者による継続的な女性――特に帰還難民、国内難民、または少数民族や政治的敵対勢力(the political opposition)に属する女性たち――の人権侵害、とりわけ強制労働、強制移住、虐待、拷問、性暴力、搾取そして拘留や即決処刑の濫用を止めること;
  6. 組織的強制退去(forced displacement)や近隣諸国への難民流入の原因を取り除き、難民の安全で自発的な帰還と完全な再統合のための適切な条件作りをすること、人道支援要員が安全で制約されることなく難民の帰還や再統合に取り組めるようにすること、そして特に国境地帯における女性やこどもの人身売買の問題に取り組むこと;
  7. こどもの権利条約および女性差別撤廃条約上の義務を十分に果たすために国内法を整備し、これらの条約に適合するよう運用すること、女性差別撤廃条約選択議定書とこどもの権利条約選択議定書に署名し、批准すること;
  8. 女性差別撤廃委員会の勧告、特に女性の人権を侵害した者の訴追と処罰を十分に履行すること;

タイ王国政府に対し

  1. タイとシャン境界線(Thai-Shan border)沿いのシャンの人々が国境を越え難民キャンプや国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)にアクセスすることを認め、保護を与えること;
  2. シャンの亡命希望者がタイの人道支援局にアクセスすることを認めること;
  3. シャンからの移住労働者の国外追放については、その多数が紛れもない難民であることに特別な注意を払うこと;
  4. シャンの女性たちがビルマ国軍の掌中に送還されないようにすること;
  5. タイとビルマ政府は、あらゆる議論、交渉、および/またはビルマ人移住者も含む帰還計画への国際社会と国連難民高等弁務官事務所の参加を認めるべきである。これらの議論の中で移住労働者流出の根本原因が取り組まなければならない。

国際社会に対して

  1. ビルマの政治情勢が、非ビルマ民族地域において広く発生し続けている人権侵害の「煙幕」として利用されることを認めないこと;
  2. 「〔ビルマ〕における人権状況」に関する国連人権委員会決議2002/67に基づく上記勧告を実行するようSPDCに圧力をかけること、そして民主的改革に向けた不可逆的変化がビルマに起きるまで軍事政権に対するいかなる形態の援助も控えること;
  3. 沈黙はその共犯となるとして、ビルマの民族地帯(the ethnic state in Burma)で働く国連諸機関および国際的なNGOに対し、SPDCがこれらの地域で民間人に対して行った残虐行為を公に証明するよう圧力をかけること。
10.付録
10-1.付録1-面接調査の詳しい内容(28件分10-2.付録2-性暴力加害者が所属する国軍兵士の部隊10-3.付録3-性暴力加害者の氏名10-4.付録4-性暴力が起こった場所の地図10-5.付録5-性暴力173事例を表にまとめたもの

冒頭の番号は、173件の一覧表で使用した番号に対応します

(1) 名前:Mie(仮名)

年齢:19

婚姻区分:独身

民族:ラフ

宗教:キリスト教

職業:農民

場所:Murng Sart郡La-Hu村

事件発生日:1991年3月8日

国軍部隊:Murng Sart郡第3拠点第49歩兵大隊

「ある晩、2人の友だちとビデオ上映会に行った帰りに、大通りを通らず農地の中を通りました。するとMurng Sart郡第3拠点第49歩兵大隊の国軍兵士が1人、こちらに近づいてきました。兵士は私の腕をつかみ、2人の友だちに帰れと命じました。友だちは怖くなって村に逃げ帰りました。私はその場にひざまずき、許してくださいと頼みましたが、そのまま道ばたに連れて行かれて強かんされました」

「私は絶望しました。役所に訴えようかと考えましたが、軍の仕打ちが怖くてできませんでした。私は事件の前から頭痛やめまいに襲われることがたびたびありましたが、あの事件の後はますますひどくなりました。夜は眠れず、あのときのことを思い出すたびに強い動悸がしました。男の人を見ると恐怖を感じました」

「家族は私のことを理解してくれず、何のケアもしてくれませんでした。家族は私を受け入れず、友だちからは白い目で見られました。私は完全にひとりぼっちで憂鬱でした。こうしたことが起きたのは、私がMurng Sart中学校の10年生だった1991年のことです。事件の直後に試験がありましたが、とても試験どころではなく、結局、試験は受けませんでした。あの事件のせいですべてが狂い、私は落ちぶれました」

(2) 名前:Naang Khin(仮名)

年齢:17

婚姻区分:独身

民族:シャン

宗教:仏教

職業:農民

場所:Murng Pan郡Nar Worn村落区Nong Lom村

事件発生日:1991年6月17日

国軍部隊:第332軽歩兵大隊第4中隊(Maung Maung Soe隊長)

1991年6月17日、第332軽歩兵大隊第4中隊(Maung Maung Soe隊長)に所属する50人の国軍兵士がMurng Pan郡の周辺パトロールを行っていた。兵士らはNaang Khinが1人で村に帰っていくのを見かけた。彼女は農地から帰るところだった。彼女は両親が農地から戻る前に夕食の支度と家の掃除を済ませようと、一足先に家路についていた。兵士らは彼女をみつけると矢継ぎ早に質問を行い、連行した。夜になっても解放されなかった。兵士には「一緒に晩飯を食え。晩飯が済んだら我々はお前の村に行く」と言われた。Naang Khinは食事を食べず、1人でぽつんと座っておびえていた。兵士らが食事を終えると、隊長は我々はここで寝ることにしたと言った。「これ以上進むにはもう時間が遅い」。

Naang Khinはその言葉を聞くと取り乱して泣いた。すると隊長が近づいてきて犯された。大声でわめいて助けを求めたが無駄だった。隊長は「家に帰って親に会いたかったら静かにしろ。言うことをきかないと、ジャングルの真ん中で撃ち殺すぞ。お前はあの村にいるべきなのにいなかった」と言った。Naang Khinは4晩監禁されたあと、5日目にやっと村の手前で解放された。

Naang Khinが行方不明になっていた間、村人たちは国軍兵士に連れ去られたのかもしれないと考えた。村人は近くの田畑で国軍の靴跡を見ていた。Naang Khinの両親が農地から帰ると娘がいなかったので、父親のLoong Sue Yae(43)は娘が失踪したことをLoong Kan Na村長に届け出た。村長は父親をLoong Sa Pin Yar村落区長のもとに連れて行って訴えさせた。村長も村落区長もNaang Khinの失踪について知っていたにもかかわらず、何もできなかった。ただ彼女の帰りを待つほかにすべがなかった。

Naang Khinは家に着くと事の顛末を両親に語った。その後、2、3日は気分がすぐれず心労が激しかった。親戚は彼女をMurng Pan病院に連れて行って医者に診せた。医者は静脈注射を打ち、2泊の入院が必要だと診断した。彼女は退院後も25日間の自宅療養が必要だった。そのすぐ後にSai Mar LarとNaang Tun Myintという2人の親戚と一緒にタイにやって来て、そのままタイに住み着き、ここで結婚した。

(3) 名前:Nar Lay(仮名)

年齢:26

婚姻区分:既婚、6歳と9歳の2児あり

民族:ラフ

宗教:キリスト教

職業:農民

場所:Murng Sart郡La-Hu村

事件発生日:1992年5月

国軍部隊:Murng Sart郡第333軽歩兵大隊

「私はジャングルの中の小さい小屋で夫と2人の子どもとともに暮らしていました。そこで水牛と牛の世話をしていました。ある日、夫は鳥を狩るために2人の子どもを連れてジャングルに入り、私は1人で留守番をしていました。そこにMurng Sart郡第333軽歩兵大隊に所属する1人の国軍兵士が庭にやってきてバナナを盗もうとしました。私はビルマ語はあまり話せませんが、バナナを取り戻すために兵士に言葉を掛けようと思いました。夫を呼びましたが、すでに遠くまで行っているのか返事がありません。私は兵士につかまり、両足を蹴られて地面に倒れ込みました。私は両足をつかまれました。逃げようとしましたが兵士の力は強く、私は1時間半にわたって強さんされました」

「夫が帰ってきたので強かんのことを話しました。すると、夫は大いに怒って私を殴りつけました。強かん事件のせいで、私と夫や子どもとの関係は瓦解しました。夫と子どもは毎日私に向かって『淫売! 売春したかったらジャングルに小屋を建ててやるからそこで売春すればいい』と言ってきます。私はこの言葉にとても傷つき、いよいよ耐えられなくなって離婚しました。しかも子どもたちに会いに行っても『売春婦! お前なんか親じゃない。もう二度と会いに来るな』と、追い出される始末です。夫は夫で、『お前は自制心をなくして他の男と寝たんだ。もう嫁じゃない。さっさと出ていけ』と言います。私はタイに来る決心をしました」

(4) 名前:Naang Jang(仮名)

年齢:16

婚姻区分:独身

民族:シャン

宗教:仏教

職業:農民

場所:Larng Kher郡Wan Jid村落区Nam Nor村

事件発生日:1992年8月24日

国軍部隊:第99歩兵大隊第3中隊(Maung Soe隊長)

Maung Soe隊長に率いられた5人の国軍兵士は、持ち場をパトロールしている最中、Naang Jangと母親のBa Sar(38)が畑でサトウキビを植えているのを見かけた。4人の兵士がBa Sarを別の場所に連れて行って集団で強かんした。一方、隊長は娘を強かんした。兵士たちは目的を達するとサトウキビを引き抜いて持ち帰った。Ba Sarは家に帰って夫、Loong Kham Aan(44)に自分の体験を話した。夫は妻の話を聞いて怒ったものの、Loong Oon村長に報告したのは5日経ってからだった。村長はこうなじった。「事件が起こったときになぜすぐに知らせなかったのか。なぜいままで黙っていたのか。事件が起きてから時間が経ってしまったので、今さら怖くて軍に報告などできない」

(5) 名前:Naang Cham(仮名)

年齢:22

婚姻区分:独身

民族:シャン

宗教:仏教

職業:農民

場所:Murng Nai郡Mai Hai村落区Na Bang Pai村

事件発生日:1994年7月

国軍部隊:第64歩兵大隊第2中隊(Soe Maung Nyo上官)

Soe Maung Nyo上官に率いられた4人の国軍兵士は、持ち場をパトロールしている最中にNaang Chamが田んぼの小屋で休憩しているのを見かけた。兵士らは無言のまま彼女に近づき、いきなり暴行した。2人の兵士が目的を達したところで、母親のBa Nyunt(38)が大声で「娘が国軍兵士に襲われています!」と叫んだ。兵士らはそれを聞いて母親に銃口を突きつけ、意識がなくなるまで殴り倒した。その後、3人の兵士が再びNaang Chamを強かんし、畑からカラスウリとカボチャを持ち帰った。

母親のBa Nyuntはこの事件をLoong Bhue Mar村長に報告した。村長は村落区長に訴えると約束してくれたが、その後、何も動きがなかった。

(24) 名前:Nar Lu(仮名)

年齢:21

婚姻区分:独身

民族:ラフ

宗教:キリスト教

職業:農民

場所:Murng Sart郡La-Hu村

事件発生日:1997年4月

国軍部隊:Murng Sart基地を拠点とする迫撃砲兵大隊

「その日はずっと水牛の世話をしていました。暑くて疲れたので家に帰り、戸を閉めて眠りました。私が寝ていたら、Murng Sart基地の迫撃砲兵大隊に属する国軍兵士が1人、壁を越えて家に侵入してきました。そして私の部屋に飛び込んで来たのです。目を開けると兵士は私の部屋の中に立っていました。兵士はこちらに走り寄って私をつかまえました。大声を出しましたが誰も助けに来ません。私はそのまま強かんされました。兵士が目的を達したとき、私は素早く起きあがって護身用のナイフを探しました」

「La-Hu村では昼間はみな田畑に出ていて誰も家にいません。村長さんがその日の夕方に農地から戻ってきたときに、私は昼間の出来事をすべて打ち明けました。村長さんは国軍の地区基地の司令官に訴えたところ、司令官は私を犯した兵士を縛って殴り、牢屋に入れてくれました。家族は私を一生懸命支えてくれ、励ましてくれています。私は負けません。毎日、田畑で頑張って働いています」

(53) 名前:Na Shi(仮名)

年齢:29

婚姻区分:既婚、2男1女

民族:ラフ

宗教:キリスト教

職業:農民

場所:Murng Ton郡La-Hu村

事件発生日:1998年7月16日

国軍部隊:Murng Ton基地

「私はその日、田畑の仕事を夕方5時に終えて家路につきました。Murng Ton基地の国軍兵士と途中ですれ違ったので、怖くて目を合わせないようにしました。しかし兵士は私の腕を取って行かせてくれません。兵士は言いました。「止まれ、このまま帰すわけにはいかない」。兵士は私の胸を触りました。道ばたに連れ込まれたときにはとても恐ろしく、大声を上げました。その場にひざまずいて助けを乞いましたが、兵士は聞く耳をもたず、そのまま犯されました。私は恐怖のあまり道ばたで気を失いました。気がつくと7時でした。いままでこれほど帰宅が遅くなったことはありません。大急ぎで家に帰ると、子どもと夫が心配して待っていました。私は先ほどの体験を泣きながら話しました。夫は村長さんの家を訪ねて強かん事件について報告しましたが、部隊の番号も兵士の名前もわからなかったので何もできませんでした」

(112)名前:Naang Thwe (仮名)

年齢:18

婚姻区分:未婚

民族:シャン

宗教:仏教

職業:農業

場所:Lai Kha 郡、Wan Ler 村落区、Bang Yong 村

Bang Yong村は1997年4月16日にWan Ler tractに強制移住させられた。

事件発生日:2000年5月16日

国軍部隊:第515軽歩兵大隊第2中隊のTun Aung大尉

SPDCの兵士60人がLai Kha からWan Ler 村のある地域へパトロールにやってきた。村に着いた彼らは村内の家々の捜索を始めた。その時、村人の多くは農作業に出ていたが、Naang Thweは家に一人でいた。Tun Aung大尉は彼女の両親が家にいないのを見て、彼女に何の質問もせず、家の中に入るよう命令した。彼女は、大尉が家を捜索するので、単に一緒に同行することを求めているだと考えていた。しかし、大尉は寝室に入ると彼女の手をつかみ、彼女の額に拳銃を当てて「死にたくなければ、騒ぐな」と脅した。そして大尉は午前9時から午後の12時半まで彼女を強かんし続けた。

 大尉が去り、夕方になって両親が農作業から帰ってくると、Naang Thweは泣きながら自分の身の上に起こったすべてを両親に話した。話を聞いた57歳になる父親Lung Kham Moonは、村長Lung Sawと村の長老Lung Kamg(原文ママ、これはKangかKamのどちらかではないか?)に事件を報告した。二日後、三人はNaang Thweを伴ってLai Kha townの行政当局へ訴え出た。Lai Khaの行政当局はその地域の軍基地のMaung Htwe大尉を呼び出し、事件について話し合った。その結果、Maung Htwe大尉はNaang Thweに軍基地に来て誰が強かん犯であるかを確認するよう依頼した。彼女は居並ぶ兵士の前に出てみたが、Tun Aung大尉を見つけることができなかった。そのためMaung Htwe大尉はこの四人の村人に罰金を科した。Naang ThweとLung Kamgはそれぞれ3万チャット、村長のLung Sawは2万チャット、父親のLung Kham Moonは1万5千チャットを支払わなければならなかった。もしこの罰金を支払うことができなければ、それぞれが10年間監獄に入らなければならなかった。

Naang Thweは事件後3ヶ月間体調を崩していたが、後に回復した。彼女の親族は彼女をよく支え、この事件を悲しんだが、ほとんど何もすることができなかった。なぜなら軍人たちは銃と権力を持っていたからである。

(119)名前:Naang Yone (仮名)

年齢:16

婚姻区分:未婚

民族:シャン

宗教:仏教

職業:農業

場所:Ho Pai 村出身、村は1997年8月27日にMurng Kerng 郡のHam Ngai村落区に制移住。

事件発生日:2000年7月20日

国軍部隊:第514軽歩兵大隊第3中隊(Than Maung大尉)

2000年7月、強制移住によって農地を離れなければならなかった村人たちが密かに農作業に戻ってきていないかを見張るために、50~55名のSPDCの兵士たちがHo Pai村があった地域をパトロールしていた。Than Maung大尉は水田の中にNaang Yoneを見つけ、農作業小屋に来るよう彼女を呼びつけた。そして、彼女が小屋のところにやってくると「誰と一緒にここへ来たのか」と尋ねた。

「父と一緒に来ました。父は今水を汲みに行っています。」とNaang Yoneは答えた。それを聞いたThan Maung大尉は小屋のなかに入るように命令し、そこで銃を突きつけて脅しながら彼女を強かんした。彼は午前10時から午後3時まで強かんした。彼女は泣き叫び懇願したが、大尉は午後3時を過ぎるまで彼女を解放しなかった。

彼女は親族と村長にこの事件について話したが、軍を恐れて訴え出ることができなかった。正義がなされることを求めてはいたが、彼らは強かん被害について軍に訴え出た者が1万チャットの罰金を科せられたことを知っていたのだ。この事件後、Naang Yoneは一人でふさぎ込み、人と会ったり話したりしなくなった。彼女の家族はそんな彼女をよく理解し、世話をしている。

(133)名前:Naang Yin (仮名)

年齢:18

婚姻区分:未婚

民族:シャン

宗教:仏教

職業:商店手伝い、高校生

場所:Murng Nai郡、Kaeng Tawng(相違:リストではKaeng Tung)村落区にある市場

事件発生日:2001年1月

国軍部隊:Kun-Hinを拠点とする第246歩兵大隊(Myint Oo大尉、San Win Po上官)

Naang Yinは商店を経営しているLung ThaとPa Khong夫婦の18歳になる娘である。Lung ThaとPa Khongは食用油、豆、種、米などを扱う乾物屋を営んでいた。Naang Yin はKaeng Tawng 村落区にある高校に通っており、シャン語以外にもビルマ語を話すことができた。その地域の軍基地の国軍兵士たちは、基地からとってきた物資を店に売って、不足している食料を仕入れていた。上官のSan Win Po を含むIB246の兵士たちは、安い値段で食料が買えるからと、基地に買い付けに来るよう彼女を誘った。

2001年1月、Naang Yinは初めて基地に一人で行った。そのとき、指揮官や大尉、兵士の多くは担当地域のパトロールに出ていた。それでも基地には、上官のSan Win Poを含む数人の兵士がいた。彼女が基地に入ると、上官のSan Win Poと10人の兵士は彼女を捕らえ、監禁し、4日間にわたり集団で強かんした。彼女の両親は彼女の行方を探して、心当たりのすべてのところを当たったが彼女は見つからなかった。結局捕らえられてから4日目に彼女は解放された。彼女は村長に事件を報告し、親戚の看護師からメディカルチェックを受けた。

村長は彼女の身を案じて、「強かんをした兵士たちに再び出会わないように、もしどこかに行けるところがあれば、行った方がいい。引っ越せるところがあれば、引っ越しなさい。」とすすめた。そこで彼女は毎晩それぞれ違う親戚の家に泊まりあるくようにした。両親は彼女の身の安全を心配し、兵士からの報復を恐れて軍に苦情を言うことができなかった。解放されてから10日目、彼女の母親は彼女を連れて国境を越えタイへ渡った。村の人たちはこれらの事件を起こした兵士に対して怒り、非難している。村長は、村の若い女性に注意を呼びかけるために話をするときには、しばしばNaang Yinの身の上に起きたこの出来事について語るという。

(135)名前:Ar Phue (仮名)

年齢:24

婚姻区分:14歳で結婚、3歳の息子の母親、2年前より未亡人

民族:アカ

宗教:キリスト教

職業:農業

場所:Ta-Khi-Laek郡、Nam Phung村落区、Wan Pa Khae村

事件発生日:2001年2月

国軍部隊:Ta-Khi-Laek郡の第359軽歩兵大隊

注記:10歳の時の病気で脚の機能に障害が残ったため、うまく歩くことができない。

Ar Phueが強かんされる2年前、当時30歳であった夫Ar Khoは国軍部隊の兵士によって殴り殺された。夫は部隊のポーターとして強制連行されていったので、どこで夫が死んだのか、どの部隊の兵士によって殺されたのかなど詳しいことは彼女も知らない。こうして、残された彼女は村から歩いて1時間半ほどのところにある畑で働くことになった。2001年2月、Ta-Khi-Laek の第359軽歩兵大隊の兵士7名が彼女のところにやってきて銃で脅した。彼女はビルマ語が話せなかったので、兵士たちが何を言っているのか分からなかったし、脚が悪いので走って逃げることもできなかった。兵士たちは1時間にわたり彼女を集団強かんした。彼女の叫び声を聞いた村人が助けに走ってくると、兵士たちは強かんを止めそこから立ち去った。

Ar Phueは村長に事件を報告した。彼女は強かんによって病気にはかかることはなかったが、妊娠してしまい、インタビュー時には妊娠3ヶ月であった。強かんされた2日後にシャン州軍(SSA)とビルマ国軍との間の戦闘が始まり、Ar Phueが診療を受けることができなかったからである。彼女の村はビルマ国軍の基地に近くすぐ近くで爆弾や放談の音が聞こえるほどであった。そのため、彼女は子どもや親戚と一緒に、タイとの国境から離れてシャン州の内部地域へ強制移住させられた。しかし彼女は4、5日そこで滞在した後、国境近くの国内難民が移住している地域へと逃れた。両親は一緒の村に住んでいなかったので、そこへは親戚と共に行った。

Ar Phueは、雨の降らない日には難民キャンプから茶農園へ働きに行く。脚が悪くゆっくりしか歩けないため、仕事を得られるよう早く農園に着くには、他の人より早く出発しなければならない。収穫した茶葉1kgあたり3バーツの報酬で、彼女は一日に多くて30~40バーツを稼ぐ。インタビューの時には、仕事を求める人が多く、Ar Phueは数日仕事がなかった。近所の人は彼女が妊娠していることを知って、早く新しい夫を見つけるよう急かすが、彼女は「私がビルマ人の子どもを妊娠していることを知ったら、誰もが嫌うでしょう」という。また彼女は、シャンの兵士とも結婚したくないと考えている。なぜなら、夫の身を案じなければならないし、また兵士である夫が敵陣への攻撃のためジャングルに入るとき一緒に行くことで自らや子どもに危険が及ぶことを恐れるからである。「夫を持たないことは大変であることは分かっているが、子どもが継父を持つようにはしたくない。結婚した女性だけを愛して、継子を愛さない男性もいるから。一旦結婚してしまえば、今度は離婚するのが大変です」ともいっている。

 アカのAr Phueが教育を受けておらず、限られたシャン語しか話せないこともさらに状況を困難にしている。「この事件について、どのようにしたらよいのか分かりません。」Ar Phueは夫が亡くなってから親と一緒に住まないと決心した。彼女の父親はシャン州軍(SSA)とビルマ国軍との間に戦闘があった頃に病死しており、母親は彼女を訪ねてきた難民キャンプでシャン人男性と再婚をした。

 彼女の出身村は、ビルマ国軍の基地に近かったため、戦闘が始まるとビルマ国軍兵士による略奪をしばしば受けていた。兵士たちはしばしば村人を軍のポーターとして徴発し、また村の家々の家畜、食料、家財道具を強奪した。詳しいことはよく分からないが、他の村の女性たちもビルマ国軍兵士によって強かんされたと彼女は信じている。

(136)名前:Naang Shwe (仮名)

年齢:18, 末娘

婚姻区分:独身

民族:シャン

宗教:仏教

職業:初等教育4年生、農業

場所:Larng Kher郡、Nong Long村落区、Nong Tao村

事件発生日:2001年3月29日

国軍部隊:第525軽歩兵大隊第4中隊(Soe Nyint隊長)

18歳のNaang Shweは牛の世話をするために、家族が所有する農地へ出かけていった。そのとき、Soe Nyint隊長に率いられた第525軽歩兵大隊第4中隊の国軍兵士たちがパトロールに来て、農地にいるNaang Shweを見つけた。隊長は彼女を呼びつけ、近づいてきたところを捕まえて強かんした。彼女は泣き叫んだが、隊長は欲望を達成するまで彼女を放すことはなかった。彼女は身の上に怒ったことを親戚に話し、彼女の叔父のLung Aue Zai Yaは村長と村の長老に訴え出た。シャン人の警察官は、訴え出ても村人が負けるだろうし、Soe Nyint隊長をどうすることもできないだろうから、この事件を報告して私を困らせるなとLung Aue Zai Yaにいった。事件の後、Naang Shweは強かんされたことを恥じ、怒り、悲しんだ。結局、彼女は国境を越えてタイ国へ渡った。

(138)名前:Naang Mie (仮名)

年齢:5

婚姻区分:独身

民族:シャン

宗教:仏教

職業:なし(N/A)

場所:Murng Nai郡、Kaeng Tawng、Ba Sar村

事件発生日:2001年3月

国軍部隊:Ba Sar 村の新しい基地、中央ビルマのMitthela and Myinchanを拠点にする第99歩兵大隊

Naang MieはSar Ba Sar村で父Lung Lao、母Pa Kham Sarと一緒に暮らしていた。2001年3月、Naang Mieが5歳の時、両親は12歳になる姉とNaang Mieを家に残して農作業に出た。その夜、姉は映画を見に家を出た。映画が終わったのが午後9時であった。彼女の家は村のほかの家から離れていたので、Naang Mieは家に一人残されることになった。

午後7時、第99歩兵大隊の国軍兵士たちが彼女の家にやってきた。兵士たちは彼女の手足を縛り、強かんした。映画から帰ってきた姉が見たのは、縛られて、性器から血を流して泣いているNaang Mieの姿であった。Naang Mie以外には誰もおらず、彼女は恐怖のあまり自分の身に何が起こったか姉にいうことができなかった。もし誰かにこのことを話したらおまえを殺すと兵士に脅されていたからである。近所の人が来て、その日のうちにNaang Mieを病院に連れて行った。彼女は勇気を出して医師に何が起こったかを話し、看護師はその裂けた膣を縫いあわせた。医師たちは彼女に薬を与え、事件の証拠として写真を撮った。医師たちは彼女たちにこの事件を報告するようにと話をした。Naang Mieの両親は村長にこのことを訴え出たが、軍をおそれて抗議に行くことはできなかった。両親は子どもたちに危険が及ぶことをおそれていた。両親はは一日中家を空けることが多かったため、留守の間に軍が来て強奪したり、家を破壊したりすることをおそれていた。村人の多くはこの事件に関して、もし両親が家を空けなければNaang Mieが強かんされることもなかったのではないかと、両親を責めた。

(140)名前:Naang Mya (仮名)

年齢:19

婚姻区分:独身

民族:シャン

宗教:仏教

職業:農業

場所:Murng Nai郡、Nar Kharn村落区、Koong Sar村

事件発生日:2001年4月16日

国軍部隊:第248軽歩兵大隊第3中隊(Hla Phey大尉)

2001年4月16日19歳のNaang Myaは家に一人でいた。彼女の家は第248軽歩兵大隊第3中隊の部隊が定期的にパトロールをする地域にあった。パトロール隊の指揮官Hla Phey大尉は彼女が一人でいるのを見つけた。大尉は彼女のところへやってきて、「私の大隊の兵士一人が行方不明だ。そいつがおまえの家に隠れているかもしれない」と言い、家の捜索が必要だと理由をつけて彼女の家に入ってきた。そして彼女に一緒に来るよう命令し、寝室に彼女を連れて行って、そこで強かんした。強かんした後、大尉は彼女から金のネックレスをもぎ取り、奪って行った。そのネックレスは重さ15グラムで、タイの金額で5000バーツの価値がある(日本円にして1万5千円程度)。恥ずかしさとビルマ国軍兵士からの報復をおそれて、彼女はビルマ政府当局に訴え出なかった。自分一人で抱え込み、痩せ衰えて、最後には病気になってひどい黄疸が出るようになった。彼女の親戚は彼女を支え、身の回りの世話をしたが、彼女の婚約者で21歳のZaai Moonは彼女に会いに来ようとはしなかった。この強かん事件が原因で、彼らは婚約を破棄した。

(144)名前:Naang Tong (仮名)

年齢:12

婚姻区分:独身

民族:シャン

宗教:仏教

職業:農業

場所:Murng Nai 郡Kaeng Tawng村落区Ba Sar村の寺院からTon Hoong村への道

事件発生日:2001年4月

国軍部隊:Murng Nai郡、Kaeng Tawng 村落区の新しい軍事拠点弟99歩兵大隊(中央ビルマからMitthela and Myinchan拠点)

12歳のNaang TongはTon Hoong村で父Lung Malar、母Pa Ongと一緒に暮らしていた。子どもの頃から目に障害を持つ彼女は、あまりよく目が見えない状態であった。2001年4月、Ton Hoong村の人々はMurng Nai 郡のKaeng Tawng内のBa Sar村の寺院へお参りに行った。彼女も村のお年寄りたちと一緒に歩いて寺院へ行ったが、帰りは友達と二人だけで歩いて戻った。IB99所属のSPDCの兵士がその二人の少女を見つけ、Naang Tongを捕まえ、強かんしようとした。友達は怖くなって逃げ出したが、彼女は目が悪いので遠くまで逃げることができなかった。彼女は兵士に抗って逃げようとしたが、泥だらけの道路の地面に倒された。兵士は再び強かんしようと彼女を押さえ込んだが、そのとき自転車でTon Hoong村からBa Sar村へ向かっていた女性が通りかかり、そこで行われていることを目にした。兵士はその女性に見られたと気づくと、Naang Tongを放した。

 兵士はNaang Tongを強かんはできなかったが、兵士に殴られたため彼女の顔は傷つけられ、痣ができ、体も痛んだ。彼女は事件を村長に報告し、村人の一人がKaeng Tawng病院に彼女を連れて行って手当を受けさせた。医師と看護師たちは彼女の傷を写真に撮って記録した。

 彼女の家族と村長は報復をおそれて軍に訴え出なかった。過去にも強かんされた者がいたが、軍に訴え出たら、罰金として10羽の鶏とバケツ1杯のオイルを課せられたことがあった。村人の多くは、この事件に関して、お年寄りたちと一緒にTon Hoong村に帰ってこなかった彼女に非があると彼女を責めた。

(145)名前:Naang Nyunt (仮名)

年齢:18

婚姻区分:独身

民族:シャン

宗教:仏教

職業:農業

場所:Ke See郡、Wan Zad村落区、Nong Kor村

事件発生日:2001年5月1日

国軍部隊:第424軽歩兵大隊第5中隊(Soe Phu大尉)

Naang Nyunt はKe See郡のWan Zad村落区, Nong Kor村の18歳の女性で、2001年5月1日に彼女の自宅でSoe Phu大尉によって襲われ、強かんされた。事件の後、彼女の父親は村長Lung Tun Hlaに訴え出た。そして父親と村長はKe See郡 に本拠を置く第424軽歩兵大隊指揮官Thung Zaw大尉に強かんの件について報告した。指揮官はNaang Nyunt自身以外に証人がいないためどうすることもできないといった。

(147)名前:Naang Phong(仮名)

年齢:21

婚姻区分:既婚

民族:シャン

宗教:仏教

職業:農業

場所:Nam Zarng郡、Nar Boi村落区、Nam Kat村

Nam Kat村は1997年3月11日にNam Zarngに強制移住させられた。

事件発生日:2001年5月18日

国軍部隊:第66歩兵大隊(Than Maung Tun大尉)

2001年5月18日、この地域の軍基地の指揮官Than Maung Tun大尉はNam Kat村の15人の女性に営倉(警衛所)の清掃のため軍基地に来るよう命令した。女性たちが基地に入っていくと、Than Maung Tun大尉は14人の女性には他の大尉たちの寝室の掃除を割り当て、Naang Phongには彼の部屋の掃除を命じた。彼女が掃除をしようと部屋に入ると、Than Maung Tun大尉が後からついてきて部屋のドアを閉め、彼女につかみかかった。彼女は「強かんされる」と悲鳴を上げたが、大尉は彼女の口を手でふさぎ、強かんした。

家に帰って、彼女は夫Zaai Pan Tiに何があったかを話した。夫が村長Lung Au Li Yaにこの事件を報告すると、村長はNaang Phongと夫を連れて大尉のもとへ行った。「大尉、昨日あなたは部屋で私を強かんした」と彼女が大尉を責めた。

しかし、大尉は「もしわたしがおまえを強かんしたというのなら、なぜ他の人にそのことを言わなかったのだ。なぜそのとき助けを呼ばなかったのだ。おまえと一緒に来た他の14人の女性たちは何か物音を聞いたり、争いがあった気配を感じたりしたのか?」と答えた。そして、14人の女性の方を向いて尋ねた。「誰か私がこの女性を強かんしたところをみたものはいるか? もしそうなら手を挙げなさい。」彼女たちは、実際に彼女が強かんされているところを見たわけではなく、大尉がNaang Phongを彼の部屋に連れて行ったのを見ただけであったので、手を挙げるものは誰もいなかった。それを根拠に、大尉は「面目をつぶされた」として罰金1万5000チャットをNaang Phongに課した。

事件のあと、Naang Phongは大変悲しみ、恥じ、恐れた。無気力になり、食も進まなくなった。彼女の夫と親戚は彼女のことを理解し支えた。彼女と夫は別れることなく、事件から2、3ヶ月たった頃、二人はタイに逃れて一緒に暮らしている。

(152)名前:Naang Ang(仮名)

年齢:27

婚姻区分:既婚、子どもはなし

民族:シャン

宗教:仏教

職業:農業

場所:Murng Nai郡、Nong Hee村落区, Ter Hong村

1996年4月11日にTer Hong 村はTon Hoongに強制移住させられた。

事件発生日:2001年7月4日

国軍部隊:Kun Hingに拠点を置く第524軽歩兵大隊第3中隊(Tun Oo隊長)

2001年6月29日、国軍兵士たちがTon Hoong強制移住地の周辺をパトロールしていたときに、Tun Oo隊長はNaang Angが村にいるのを見つけた。Tun Oo隊長はTan Aung隊長が率いる30人の兵士にこの地域をパトロールするように命じた。数日後、Tun Oo隊長は村長のLung MinにNaang Angの夫Zaai Maung Hlaを連れてくるよう命じた。隊長は、やってきたZaai Maung Hlaに「これから二日間、私の部隊の案内役として働いてもらいたい。家に行って荷物をまとめて、ここに戻ってこい。そして、ここで指令を待て。」といった。Zaai Maung Hlaは反論することはできず、命令に従うしかなかった。

7月4日、Zaai Maung Hlaはまだ家に帰ることができなかった。Tun Oo隊長は夫が留守であることを承知でNaang Angのもとを訪ね、何の質問もせずに家のなかに入ってきて、「寝室に何を持っている。調べるので一緒に来い」といった。彼女は「大尉、一人で見に行ってください」と答えた。そうすると、大尉は「おまえも一緒に来い」といって、拳銃を取り出し彼女の額に押しつけ脅した。そして彼女を寝室に引きずり込んで強かんした。午前10時から午後3時まで5時間にわたって彼女を強かんした。

Zaai Maung Hlaが家に帰ると、Naang Angは身の上に起こったことをすべて話した。彼女の夫は事件を村長と村の長老に報告した。村長たちは事件の一部始終を聞いて、この事件を報告はしたいが、証人はNaang Angだけであり、おまえの話だけでは、われわれは勝てんぞ」といった。結局、彼らは軍に訴え出ないことに決めた。

事件当初、夫はNaang Angのことを「ビルマ人の残り物」と呼んでいたが、両方の家族らが彼女の身に何が起きたのかついて十分に話し合い、彼女が望んで隊長と性的関係を持ったのではなく、銃で脅されて強かんされたのだということが理解された。2001年8月に彼女と夫はタイに逃れてきた。 

(155)名前:Naang Aye(仮名)

年齢:16

婚姻区分:未婚

民族:シャン

宗教:仏教

職業:農家

場所:Nam Zarng郡Wan Nong-Koong Mon村落区Koong Sar村

事件発生日:2001年7月16日

国軍部隊:Nsm Zarngに駐留する第66歩兵大隊第2中隊,のZaw Hlaing大尉

2001年7月16日、Nam Zarng郡区Wan Nong-Koong Mong村落区Koong Sar村出身の16歳の少女Naang Ayeは彼女の村から西に1.5マイル離れた場所でZaw Hlaing大尉によって強かんされた。彼女はその事件について当局に訴えなかった。しかし強かんの9、10日後、Nam Aya は病気になった。彼女は憂鬱になり、だるく、食欲もなくなった。彼女の親類は彼女をNam Zarng 病院に連れて行き、彼女はそこに5日間入院した。病院に5日滞在しても彼女は回復しなかったので、家族は彼女をLoi Lem病院に移した。10日以上の治療と治療費17,000チャットをかけるとNaang Ayaの具合は家に帰れるほどよくなった。

(160)名前:Naang Hla(仮名)

年齢:16

婚姻区分:既婚、2ヶ月の子ども

民族:シャン

宗教:仏教

職業:農家

場所:Kun Hing郡Keng Lom 村落区Keng Lom村

Keng Lomは1996年にKun Hingに強制移転された。

Kun Hingには2年間住んでいたが、お金と食料を得るのが困難だったため、1998年に彼女はKeng Lom近くの密林に入った。そこで性暴力にあった。襲撃後彼女はタイへと国境を渡った。

事件発生日:2001年8月

国軍部隊:第246軽歩兵大隊

Nang Hlaと夫がその地域を巡回する国軍部隊から攻撃を受けた時、彼女は16歳で、結婚3年目、妊娠6ヶ月であった。Naang Hlaは26歳の夫Zaai Kue Naと共に自分たちの農場の小さな小屋に住んでいた。2001年8月、国軍は彼女達の農場に入り、Zaai Kue Naを繰り返し打ち拷問をかけ尋問した。Zaai Kue Naはタオルで目隠しされ木に縛りつけられた。彼を連打した後、兵士達はNaang Hlaを小屋に連れて行き鞭で彼女を打ち銃で彼女を脅した。彼らは鼻血が出るまで銃を彼女の体や顔に押し付けた。その時彼女は妊娠7ヶ月であったにも関わらず兵士達は次々と強かんした。彼女が泣いたり叫んだりすると小屋の外にいる他の兵士が笑い声を出すということをしながら、合計で10人の兵士達が彼女を強かんした。兵士達は、妻に起こっているすべての事や妻の苦痛による大声の叫びが十分聞こえるほどの距離の小屋の近くに、彼女の夫を縛りつけていた。彼らは彼女を人間でないような扱いをし、午前8時から午後4時まで強かんした。この悪夢ような経験が続くなかNaang Hlaは数回意識を失った。

Naang Hlaを強かんすると、兵士達は夫を国軍の運搬人にするために一緒に連れて行き、彼は帰ってくることはなかった。Naang Hlaは夫は死んでしまったに違いないと思った。

Naang Hlaは密林の小さな小屋に一人置き去りにされ、病気になり呆然自失となった。彼女は目まいがして立ったり歩いたりすることができなかった。彼女には絶え間ない頭痛、激しい下痢があり、そしておびただしい出血をし、彼女はお腹の子を失ったと思った。更に一人で4日過ごした後、Naang Hlaは妊娠7ヶ月で子どもを産んだ。次の日彼女の夫の親類が彼女をタイに連れて行くためにKun Hingから到着した。彼らはその兵士達の巡回地域を不安に思い、タイ着く前に強かんやZaai Kue Naの死について聞いた。

彼女は夫の死を訴え彼女を強かんした兵士達を処罰してほしかったが、出来なかった。彼女はビルマ語を話せず、また当局への訴え方を知らなかった。軍隊の番号が明らかではなかったので、彼女は強かんと夫の殺人についての報告はためらいがちであった。

 インタビュー当時、彼女の2ヶ月の赤ん坊はひどい病気であった。彼女の母乳を飲むと、子どもは激しい下痢になったがNaang Hlaはミルクを買うお金がなかった。体が弱ってしまい働けず、診療所に行くお金も治療の費用もなかった。

(161)名前:Naang Mo(仮名)

年齢:13

婚姻区分:独身

民族:シャン

職業:農家

場所:Kun Hing郡Nam Kham村

事件発生日:2001年8月

国軍部隊:Kun Hing基地第246軽歩兵大隊

国軍兵士たちはKun Hing基地近くの地域を巡回中、13歳のNaang Moが14歳の友人Naang Jungと、Nam Kham村から二時間の山林で野菜を収集しているのに気づいた。彼らは少女達に近くと、友人のNaang Jungはなんとか逃げて安全なところへ走っていったが、Naang Moは大尉に捕らえられて、強かんされ、次の日の朝早くにNar Khue村の近くで解放された。ちょうどNae Khue村の外の辺りで、Naang Moはサロンに顔を押し付け泣いたが、結局はサロンを持って自分の村に戻り、親類に何が起こったのかを話した。彼女は地元基地指揮官に訴えたかったが、もしその事件を報告するということになれば彼らは罰金を課されるか投獄されるだろうと思った。彼らは裁判を望んだが、彼らができる事はなにもなかった。Naang Moは落胆し、恥を感じ、無気力になった。

(162)名前:Naang Kham(仮名)

年齢:16

婚姻区分:独身

民族:シャン

宗教:仏教

職業:農家、Murng Pan町の小学校4年を終了

場所:Murng Pan郡Nong Long村落区Loi Noi村

事件発生日:2001年9月11日

国軍部隊:第520軽歩兵大隊第4中隊、Kyaw Won大尉

16歳のNaang Khamは一人で家にいると、Kyaw Won大尉が村に来て鶏を数羽飼いたいと言ってきた。彼はNaang Khamが一人でいるということがわかると、彼女の家に入り彼女を強かんした。彼女は大声で叫んだが彼は彼女の顔を叩き打撲傷を負わせた。この事件の後、彼女は当局に訴えなかったが、家族に打ち明けた。後に彼女は家族と共に国境を渡りタイへ行った。

(168)名前:Naang Tun(仮名)

年齢:19

婚姻区分:既婚

民族:シャン

宗教:仏教

職業:農家

場所:Lai Kha郡Nong Kaw村落区Kang Oon村

Kang OonはLai Kha郡Wan Long Bue Huiに強制移転された

事件発生日:2001年10月24日

国軍部隊:第515軽歩兵大隊第3中隊、Soe Soe Aung大尉

2001年10月24日、Soe Soe Aung大尉率いるの4人の国軍兵士たちが、強制移転されたKang Oon村で鶏を買うため、その地域の軍事野営地を離れた。その村に着くと、Soe Soe Aung大尉はNaang Tunが一人でいることに気づき、彼女に「夫はどこだ?」と聞いた。

 「夫は強制労働で不在です。」と彼女が答えた。

 「私はあなたの家を調べる必要がある。」彼は言った。「あなたの財産の紛失を防ぐため一緒に来なさい。」家に入ると、大尉はNaang Tunの手をつかみ彼女を横にさせ、彼女の頭に拳銃を向けた。「起き上がるな、」彼は命令した。「もし起き上がったら打つぞ。」

 強かん中、彼女は2,3回大声で叫び「こんなことをしないで、大尉!」と悲鳴をあげた。彼は彼女の顔を平手打ちし、再び拳銃で彼女を脅して言った。「死にたいのか?」彼女は恐がって静かになり、強かん後に彼が兵とともに野営地へ帰り去るまで、それ以上なにも言わなかった。

Naang Tunは村長Lung Kan Naと7,8人の村の年長者にその事件について話した。彼らは彼女に、夫が家に帰ってくるまで待つよう頼んだ。夫は強かんの2-3日後に家に着き、Naang Tunは泣きながら彼に起こった出来事を話した。2人は村長と村の年長者と共にキャンプへ向かった。全部で13人の村人が現地第515軽歩兵大隊軍野営地に野営地指揮官Than Tunと話し合うために向かった。大尉は「Soe Soe Aung大尉はここ19-20日間この地域を巡回していて、まだ戻っていない。」と言った。Naang Tunは自分を強かんした者を簡単に見分けることができると主張したので、野営地指揮官はすべての兵を整列させた。146人の兵士は一列になって立ったが、Soe Soe Aung大尉はその中にいなかった。Naang Tunが強かん者を特定することが出来ずにいると、Than Tun大尉は「これが現在私の野営地にいるすべての兵士だ。私は誰があなたを強かんしたか知らないが、あなたも私の兵士や野営地を非難することができない。」と言った。そういうと彼はNaang Tunを軍刑務所に送った。彼女は年長者が再びThan Tun大尉に会いに来るまでの1日と1夜、そこに滞在した。村人は大尉に謝りNaang Tunを釈放してくれるよう頼んだ。大尉は「Naang Tunを釈放のためには、金を払わなければならない。あなた方は私に恥をかかせ面目を失わせたため20,000チャット払わなければならない。」と言った。村人はその金額を払い、Naang Tunは釈放された。

 釈放後、Naang Tunの具合はよくならなかった。彼女は頭痛とめまいがし、Lai Kha町の病院へ5回行かなければならなかったが、そのうちに彼女は回復した。彼女の家族は支えとなり理解があるが、Naang Tunは罰を受けた強かん犯に会いたいと思っている。

(169)名前:Naang Lawnt(仮名)

年齢:32

婚姻区分:既婚、3人の子ども(Zaai Won9歳、Naang Moon7歳、Zaai Lin5歳)

民族:シャン

宗教:仏教

職業:農家

場所:Murng Kerng 郡WanLone村落区Loi Sim村

Loi Simは1997年4月27日にMurng Kerng町に強制移転された

事件発生日:2001年11月6日

国軍部隊:第514軽歩兵大隊、Thein Myint上官・Nyan Lin上官

60-70人の国軍兵士達はNaang Lawntの村の近くの地域を巡回していた。彼女の夫Zaai Tunは兵士達が近づいてくるのを見ると逃げだし、兵士達は彼が逃げて行く姿を見た。彼らはNaang Lawntの家を取り囲み、なにも不法なことを見つけることなしに、彼女の家の中と外を徹底的に詮索した。彼らは家の詮索が終わると、Naang Lawntに彼らと一緒に来るよう命じたが、彼女は行きたくなかった。Thein Myint上官は彼女の顔を3,4回平手打ちし「一緒に来るのか?来ないのか?」と言った。彼女には選択肢がなく軍隊に連れて行かれた。

 彼らは最初に彼女を2夜密林に連れて行き、そこで上官Thein MyintとNyan Linは彼女を強かんした。それから彼女を人気のないMurng Kerng郡Hui Hey村落区Koong Bien村に連れて行き、3夜彼女をそこに居させ、その後最後の1夜は現地第514軽歩兵大隊野営地へ連れていった。彼女はこの時、計6日夜至る所で強かんをされた。

 ようやく彼女は午前7時に解放された。彼女が去る前、Thein Myint上官は「もしお前が誰かにこのことを言ったら、お前と夫を殺しに戻ってくるぞ。」と警告した。Naang Lawntは家に着くと、夫にすべてを話したが2人は恐がって誰にも訴えることができなかった。

Naang Lawntと彼女の夫は今も一緒に住んでいる。夫は彼女を理解し、起こった出来事についてビルマ軍兵士だけを非難した。Naang Lawntは憂鬱になり、彼女にした事に対し兵士達を罰する方法がなかったということに落胆している。彼女はこの事件後、病気になりMurng Kerng町の病院で7日入院した。

(170)名前:Naang Ying(仮名)

年齢:17

婚姻区分:独身

民族:シャン

宗教:仏教

職業:農家

場所:Murng Kerng郡Murng Khun村落区Wan Khom村

Wan Khom村は1997年11月6日にMurng Kerngへ強制移住された

事件発生日:2001年11月6日

国軍部隊:第514軽歩兵大隊第5中隊、Kyaw Myint大尉と4人の上官

Naang Yinghaは村の外で食料を探していると60-70人の国軍兵士たちがそばを通り過ぎた。彼女が働いているのを見ると、兵士達は彼女を連れて行った。彼らは彼女を2夜、密林に連れて行き、次に3夜、人気のないMurng Kerng郡Hui Hey村落区Koon Ban村へ、それから最後にその地域の野営地に1日連れて行った。Kyaw Myint大尉は4,5人の上官と共にその6夜間毎晩、集団強かんを行った。そして彼らは彼女を7日目の午前6時に解放した。

 彼女は家に着くと、両親と親類に彼女の身に起こった事を話した。家族は彼女をMurng Kerngの病院に血液検査をしに連れて行き、村長である彼女のおじLung Nan Tiはこの事件についてMurng Kerng町長Lung Hla Shweに報告をしに行った。その出来事を聞きLung Hla Shwe町長は第515軽歩兵大隊第3歩兵中隊のshan大尉のShwe Hlaと話し合いに行った。大尉は「ビルマ人兵士達はうそをつく習慣がある。私たちは自分たちでその事件について立証しないので、彼らは誰が起こったことについて証明できるのか尋ねるだろう。Nnag Yingはどの兵士達が彼女を強かんしたか分かったとしても、兵士達は彼女がうそをついていると主張してくることも考えられる。私は兵士達が罰せられて欲しくないからこんなことを言うのではない。私は国軍兵士であるが、私の親類はすべてシャンであるし、彼女に起こった事についてとても気の毒に思っている。しかし、この場合勝つことは不可能であろう。」

彼女の家族は理解がありNaang Yingを支えた。彼女は強かん者を罰したかったが自分にはなにも出来ないということに失望した。

(171)名前:Naang Seng(仮名)

年齢:14

婚姻区分:独身

民族:シャン

宗教:仏教

職業:農家

場所:Murng Kerng郡Wan Phey村落区Nar Lein村

Nar Leinは1997年9月13日にMurng Kerng郡に強制転居された

事件発生日:2001年11月6日

国軍部隊:第514軽歩兵大隊第5中隊、Kyaw Myint大尉

60-70の国軍兵士達がNar Lein村に来ると、その村の男達は国軍の運搬人に強制されることを恐れ、村に女性だけを残して逃げた。Kyaw Myint大尉はNaang Sengの家に近づき、14歳の女の子が家に一人でいるのを見ると、彼の兵達に家の外に立っているよう命令し、Kyaw Myint大尉はNaang Sengを寝室に引っ張り彼女を強かんした。彼女は大声で叫ぶと彼は彼女を叩いた。

 兵士達が村を去った後、彼女の家族が帰ってきた。Naang Sengは何が起こったかを告げたが、彼らは恐れるあまり、当局に訴えることができなかった。その事件の2日後、Naang Sengの姉Naang ShweはMurng Kerngの病院に身体検査に連れて行った。心配と憂鬱でNaang Sengは5、6日眠ることができなかった。彼女はその大尉を罰したかったが、なにもすることが出来なかった。

(172)名前:Naang Khei(仮名)

年齢:24

婚姻区分:既婚(8年前に結婚、6歳の娘と3歳の息子がいる)

民族:シャン

宗教:仏教

職業:農家

場所:Murng Paeng郡Murng Boo Long村落区Na Lae村

事件発生日:2001年11月28日

国軍部隊:第248軽歩兵大隊第3中隊、Tun Yin大尉およびThan Maung中尉

2001年11月28日、Naang Kheiは彼女の村から1マイル離れた農園で野菜を採っていた。Tun Yin大尉とThan Maung中尉はNaang Kheiがそこに一人でいるのを見つけると、銃を向け、彼女の方に向かった。彼女は2人の上官が農場から村の野菜を盗もうとしているのだろうと思った。しかし彼らは彼女のところに着くと、彼らは彼女の両手を挙げさせ彼女の体を調べたがなにも見つけなかった。そして彼女に藁の山に行くよう命じた。Naang Kheiは最初その命令に従わなかったが、彼らは銃を彼女の背中に向け、進ませた。藁の山に行くと一方が彼女に銃を向け、その間他方が彼女を強かんした。それから彼らは交換してまた一方が彼女を強かんした。彼らが彼女を家に返すまで2時間半かかった。彼女は家に着くと、夫と両親に彼女の身に起こったことについて話した。両親と33歳の夫Sai Kawと共にNaang Kheiは村長のLoong Sawのもとに報告しに行った。村長はMurng Boo Long 村落区基地の第3中隊指揮官大尉Kyaw Kaeingのもとに4人とともの同行した。Naang Kheiは指揮官大尉に彼女の身に起こったすべての事を話した。指揮官は知ることができて良かったと言い、彼ら5人に明日の午前8時半にまた来るよう言った。2001年11月29日午前8時半に彼ら5人は再び軍事基地に向かった。その指揮官はNaang Kheiに強かん者を特定するよう言った。「彼らの顔を慎重に見てあなたを強かんした者を指し示しなさい。」と彼は指示した。彼女は整列した兵士達を見せられたがTun Yin大尉とLt.Than Maungをその中に見つけることが出来なかった。Naang Kheiは指揮官にTun Yin大尉とThan Maung中尉はこの48人の兵士の中にはいないと告げた。「私は彼らを判別できます。」彼女は言った。

 指揮官は「第3中隊の兵士はこれで全員だ。我々は私を含めた49人ですべてだ。これはあなたが私の軍支局をブラックリストに載せたいということを意味する。」と言った。彼は5人全員を刑務所に向かわせ始めた。しかし村の首領は仲裁に入り許しを求めた。刑務所の変わりに指揮官は5人それぞれに罰金を課した。5日以内にNaang Kheiと村の首領はそれぞれ10,000チャットを払わねばならず、彼女の夫は5,000チャット、両親は7,000チャット払うことを要求された。総額で39,000チャットに達した。

(173)名前:Naang Ku(仮名)

年齢:18

婚姻区分:独身

民族:シャン

宗教:仏教

職業:農家

場所:Kun Hing郡Warn Lao村落区Warn Lao村

事件発生日:2001年12月4日

国軍部隊:第524軽歩兵大隊第4中隊、Myint Maung Htwe大尉

2001年12月4日、第524軽歩兵大隊のMyint Maung Htweは2001年初期に強制移住させられた村人のいる強制移住地域の定期巡回中であった。大尉が強制移住敷地の家に、一人でいるNaang Kuを見ると、彼はその家に近寄り、「君は家に一人でいるみたいだが両親はどこに行ったのか?」と尋ねた。

 「父は強制労働をしに出かけ、母と姉は農園に行っています。」Naang Kuは答えた。

「昨夜、この家に誰か来たか?客は居たか?」

 「誰も来ませんでした。」彼女は答えた。大尉はそこに客が居たのか居なかったのか探し出すと言い、Naang Kuに家と寝室を見せるよう求めた。彼は彼女も一緒になかに入るよう命令し、銃を引き抜き彼女に横向けになるよう命令した。彼女が拒否すると、彼女の手をつかみ横にさせた。2回Naang Kuは「大尉が私を強かんしている!」と叫んだ。大尉は彼女の口と顔を叩き強かんし続けた。

 「悲鳴を上げたり両親や親類に起こったことを話したりしたら、私はお前らすべてを射殺しに来るぞ。」と彼は彼女の家を去る時、おどした。夕方になり、両親と親類が仕事から帰ってくると彼女は事件について話した。彼らは誰にもこの事件について知らせなかった。次の朝、彼女の母は彼女をKun Hing病院に診断に連れて行った。この事件の後、両親はこれ以上この強制移住地域に居たくないと思い、Murng Tonに移り、後、2001年12月26日にタイに渡った。

Appendix 2 – List of SPDC battalions whose members committed sexual violence
  Military Unit/No. Location of base (if known); 

on patrol (if known)

No. of

Cases

Area/township where sexual violence occurred & No. of Cases
1 IB 246 Based in Kun Hing 19 Kun Hing 14, Murng Nai 2, Nam Zarng 3
2 LIB 515 Based in Lai Kha  14 Lai Kha 11, Loi Lem 1, Murng Kerng 2
3 IB 66 Based in Nam Zarng & patrolling 13 Nam Zarng 10, Murng Nai 2, Murng Pan 1
4 LIB 524 Based in Kun Hing 11 Kun Hing 8, Murng Nawng 1, Murng Nai 2
5 LIB 514   8 Murng Kerng 6, Loi Lem 1, Ke See 1
6 IB 99 Based in Malkthila and Myingan(Central Burma)2, based in Larng Khur 1, based in Nam Zarng 1 7 Larng Kher 2, Murng Nai 3, Nam Zarng 2
7 IB 225 Based in Murng Ton 6 Murng Ton 6
8 LIB 333 Based in Murng Sart 6 Murng Sart 5, Murng Ton 1
9 LIB 334 Based in Murng Yawng 4 Murng Yawng 6
10 IB 64 Based in Murng Nai 2, based in Lai Kha 1 4 Murng Nai 3, Loi Lem 1
11 LIB 520 Based in Murng Pan 4 Murng Pan 3, Murng Nai 1
12 LIB 513 Patrolling 3 Loi Lem 3, Murng Kerng 1
13 LIB 332   3 Murng Pan 4
14 IB 49 Based in Murng Sart 3 Murng Sart 3
15 IB 227 Based in Murng Yarng 1, based in Murng Phyak 1 3 Murng Yarng 1, Murng Khark 2
16 LIB 314 Patrolling 3 Kaeng Tung 3
17 LIB 316 Based in TaKhiLaek 2 TaKhiLaek 3
18 LIB 424 Based in Ke See 2, based in Kun Hing 1 2 Ke See 2, Kun Hing 1
19 LIB 359 Based in Ta-Khi-Laek 2 TaKhiLaek 1, Murng Sart 1
20 LIB 519 Based in Murng Ton 1, based in Kun Hing 1 2 Kun Hing 1, Murng Ton 1
21 IB 247 Patrolling 2 Nam Zarng 2
22 IB 226 Based in Kaeng Tung 2 Kaeng Tung 2
23 IB 55 Patrolling 2 Lai Kha 2
24 IB 248   1 Murng Nai 1, Murng Paeng 1
25 LIB 277 Based in Murng Ton 1, patrolling 1 1 Murng Ton 1, Murng Pan 1
26 LIB 525 Patrolling  1 Larng Kher 1
27 IB 45 Patrolling 1 Murng Sart 1
28 LIB 378 From Arkan State  1 Kun Hing 1
29 LIB 44 Patrolling 1 Kun Hing 1
30 IB 43 Patrolling 1 Murng Paeng 1
31 LIB 242 Patrolling 1 Kae See 1
32 LIB 442 Patrolling 1 Lai Kha 1
33 LIB 517 Patrolling  1 Lai Kha 1
34 LIB 502 Patrolling  1 Murng Pan 1
35 IB 65 Based in Murng Ton 1 Murng Ton 1
36 LIB 324 Based in Nam Tu 1 Nam Tu 1
37 IB 22 Patrolling  1 Nam Zarng 1
38 LIB 422 Based in Murng Nai 1 Murng Nai 1
39 LIB 527 Based in Murng Sart 1 Murng Sart 1
40 IB 102 Patrolling 1 Kun Hing 1
41 IB 279   1 Murng Yarn 1
42 LIB 514 Patrolling 1 Kae See 1
43 LIB 529 Based in Kaeng Tung 1 Murng Ton 1
44 IB 245   1 Kaeng Tung 1
45 IB 226 Patrolling 1 Kaeng Tung 1
46 LIB 503 Based in Murng Phyak 1 Murng Ton 1
47 LIB 383 Based in Murng Kerng 1 Murng Kerng 1
48 LIB 516 Patrolling 1 Kae See 1
49 IB 64   1 Lai Kha 1
50 IB 221 Based in Murng Phyak 1 TaKhiLaek 1
51 IB 9   1 Murng Kerng 1
52 IB 244   1 Kaeng Tung 1

Appendix 3 – Names of perpetrators of sexual violence

1. IB 246 

– Maj Saw Win

– Maj Too Nyeing

– Maj Tu Nyein

– Maj Aung Shein

– Commander Myint Oo

– Capt Soe Naing Oo

– Capt Tin Maung Win

– Capt Than Naing Oo

– Capt Kyaw Aye

– Capt Than Maung

– Capt Aung Moe

– Capt Htun Myint

– Capt Aung Htay

– Capt Kyaw Myint

– Capt Zaw Thein

– Officer Saw Win Po

2. LIB 515

– Maj Soe Hpyu

– Commander Maung Maung

– Commander Han Aung

– Capt Tun Aung

– Capt Myin Oo

– Capt Aung Hpyu

– Capt Soe Soe Aung

– Lt-Col-Htun Sein

3. IB 66

– Commander Htun Myint

– Commander Tin Myint

– Commander Myint Sein

– Capt Than Kyaw

– Capt Htun Aung

– Capt Htay Aung

– Capt Aung Kyaw

– Capt Soe Win

– Capt Nyunt Maung

– Capt Than Maung Tun

– Capt Zaw Hlaing 

– Sgt. Khin Maung

– Sgt. Sein Win

4. LIB 524

– Maj Htun Mya

– Commander Htun Mya

– Commander Khin Hla Win

– Commander Khin Maung

– Commander Hla Aung

– Capt Htun Mya

– Capt Win Naing

– Capt Tun Oo

– Capt Soe Win Hpyu

– Capt Myint Maung Htwe

5. LIB 514

– Capt Kyaw Myint

– Capt Sein Win

– Capt Myint Aung

– Capt Than Maung

– Capt Thein Maung

– Capt Kyaw Myint

– Capt Than Myint

– Officer Thein Myint

– Officer Nyan Lin 

– Lt. Aung Hla

– Sgt Pa Thein

6. IB 99

– Capt Aung Zaw

– Capt Than Than

– Capt Aung Htun

– Capt Than Maung

– Capt Maung Soe

7. IB 225

– Capt Aung Zaw

– Capt Kyaw Aye

– Capt Htun Myint

– Capt Myint Lwin

8. LIB 333

– Commander Thein Maung

– Capt Maung Maung

– Capt Naing Oo

– Corporal Kin Maung Soe

9. LIB 334

– Copal Kyagyi

– Private Kyaw San

10. IB 64

– Commander Khin Than Aye

– Commander Chit Htwe

– Maj Kyaw Khang

– Officer Soe Maung Nyo

11. LIB 520

– Maj Than Maung

– Maj Maung Ong

– Capt Than Maung

– Capt Kyaw Won

12. LIB 513

– Maj Kooma

– Commander Hla Thaung

13. LIB 332

– Capt Maung Maung Soe

– Capt Hla Hpe

– Capt Kyaw Win

14. IB 49

– Capt Han Sein

15. IB 227

– Capt Sein Win

– Private Hla Tin

16. LIB 314

– Lt Kyaw Soe

– Lt Hla Htwe

17. LIB 316

– Commander Naing Lin

– Private Maung Bo

18. LIB 424

– Maj Maung Kyaw Tun

– Capt Soe Hlaing

– Capt Soe Phu

19. LIB 359

– Capt Htun Kyaw

20. LIB 519

– Maj Min Sein

– Sgt Hla Phyu

21. IB 247

– Commander Tha Aye

– Capt Mya Htoo

22. IB 226

– Private Kyaw Lwin

– Lt. Kyi Htun

23. IB 55

– Capt Khin Soe

– Capt Thein Win

24. IB 248

– Capt Hla Phey

– Capt Tun Yin

– Lt Than Maung

25. LIB 277

– Maj Aye Thant

– Capt Khin Maung Nyunt

26. LIB 525

– Capt Soe Nyint

   
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